中国春秋時代〜ビジネスパーソンなら知っておきたい
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およそ250年続いた周王朝は、第12代の幽王が申国から迎えていた皇后を廃し、傾国の美女、褒姒を皇后としたため、怒った申候が西方の異民族国家、犬戎の手を借りて王都に攻め込み、幽王は殺害されました(BC771)。
褒姒はめったなことでは笑わない女性で、幽王は褒姒の笑う顔が見たくて平時にしばしば諸侯を集めるためののろしを上げたため、申候らが攻め込んできた時にのろしを上げても諸侯が集まらず、幽王は殺害されたといいます。
申候は、鄭の武公など、諸侯と相談して、元々の太子であり自分の孫でもある平王を即位させました。王都は今の西安から洛陽に遷都されました(BC770)。この一連の出来事で周王は中華を取りまとめる力を失い、百以上もの都市国家が覇権を求めて争う春秋時代が始まります。なお、このころ、幽王や平王をよく護衛した功績が認められて、約500年後に中華を統一することになる秦が建国されています。
周王室が弱体化する一方で力をつけていったのが、平王の祖父の弟を祖とする鄭です。鄭の荘公は周の首相のような地位にありましたが、荘公の周王室を軽んじる態度を怒った周の桓王は、蔡、衛、陳と連合軍を組んで鄭に攻め込みました(BC707)。ところが連合軍は鄭軍に繻葛の地で撃破されます。これ以降、周王室は実権を持たない名目的な、日本の戦国時代の天皇のような存在となってしまいます。
春秋時代の初期において権勢を誇った鄭ですが、荘公の死後、後継争いなどにより衰退していきます。
鄭に代わって国力を伸ばすのが、周王朝の軍師であった太公望が今の山東省に封じられて始まった斉です。斉の桓公(BC685即位)は宰相の管仲の助けで内政の改革を断行して国力を大きく増強し、対外関係でも北方民族の侵攻を撃退して燕を救済したり、北方民族により滅ぼされた衛を再興したり、中原へと勢力を拡張する楚を、諸侯連合軍を率いて破ったりしました。諸侯の信認を得た斉の桓公は、魯・宋・衛・鄭・許・曹等を集めて会盟し(BC651)、春秋時代の五人の覇者のうちの最初のひとりとなりました。
斉の桓公のブレインであった管仲は「衣食が足りて礼節を知る」と述べた言われます。管仲は、道徳よりも経済を重視するという、極めて現代的と言える思想に基づき国を富ませ、桓公を覇者へと導いたのでした。
桓公がまだ即位する前のこと、管仲は桓公の兄に仕えていましたが、その兄が後継者争いに破れて死に、管仲もとらえられて処罰されることになりました。しかし、幼なじみで、貧窮していた管仲になんども騙されたこともある鮑叔の推挙により、管仲は桓公に仕えることになりました。この故事から、仲のよいありさまを「管鮑(かんぽう)の交わり」と言うようになりました。
東方の斉の桓公が全盛期にあったころ、西方の秦では穆公が即位し(BC659)、百里奚など名臣の補佐で国を大いに富ませ、周辺の遊牧民族を斬り従えて西方の覇者となり、のちに天下統一を果たす秦の繁栄の基礎を作りました。
北方の晋では、太子の重耳が、内紛による19年に及ぶ流浪の亡命生活の末に、秦の穆公の援助を得て即位しました(BC636)。春秋の五覇として、斉の桓公と並んで必ず名前があがる晋の文公です。文公は国力を充実させ、周王朝を助け、異民族の侵入を撃退、北方諸国連合軍を率いて楚の大軍を城濮の戦いで撃破し、周王を招いて会盟を主催しました。
城濮の戦いで文公は、流浪の旅の途中で立ち寄った楚で、帰国後戦場で楚と相対したときには三日分の行程だけ軍を退けて謝意を表すとした約束を果たしたと言います。時代が下ると列国は厳しい実力闘争を繰り広げるようになっていきますが、この頃にはまだ周代の伝統である礼に従う雰囲気が残っていたことがわかります。
南方の楚では、荘王が即位しました。荘王は即位後しばらく政務を全くとらず、暗愚なふりをして家臣の人物を見極め、即位から3年が過ぎると立ち上がり、有能な人材を登用し、国力を大いに増大しました。紀元前597年には邲の戦いで北方の晋を破り、これにより中華の覇権は晋から楚へと移りました。
五挙という者がという人が、即位直後の享楽にふける荘王を諌めて、「鳥が三年の間、鳴きもせず、飛びもしませんでした。どのような鳥でしょうか」と述べると、荘王は「ひとたび飛べば天までのぼり、ひとたび鳴けば人々を大いに驚かす」と答えたと言います。鳴かず飛ばずという言葉はこの故事からきています。
荘王は、洛陽の郊外まで軍を北上させ、威圧して、周王の家臣に対し、周の王室に代々伝わる鼎の大きさや重さを尋ねました。鼎を持ち帰ろうとしたかのような、この荘王の言葉から、権威に挑戦するという意味で「鼎の軽重を問う」と言われるようになりました。
楚に覇権を奪われた晋ですが、北方の異民族を攻め落としたり、これと同化したりして北方へ勢力を拡大し、また、北方の戦闘様式を取り入れたりして勢力を盛り返していきます。力をつけた晋は楚と対立し、双方の間で激戦が繰り返されました。
両国の戦いの戦場となったのは宋、鄭、陳、蔡の小国であり、戦禍にたまりかねた宋国の仲介により紀元前579年に晋と楚のあいだで休戦協定が結ばれます。
ところがその後すぐに、晋の盟下にあった鄭が楚に攻撃され楚の盟下に入り、怒った晋は、衛、斉、魯などと連合して、鄢陵の地で楚と戦いました(BC575)。晋は勝利し、楚から覇権を取り戻します。
そして紀元前546年に、再び宋の仲介で晋と楚の間で休戦協定が結ばれ、それ以降、中華の中心部での武力衝突はやや下火となります
この頃、魯で孔子が生まれています。春秋時代後半から戦国時代にかけては孔子を祖とする儒家のほか、道家、墨家、法家など諸子百家が活発に活動しました。法家は中国の統一を果たした秦による統治の礎となり、道家の思想を中核とする道教は宗教となり、後世の中国人の精神の支柱となりました。儒教は我々現代の日本人の思考にも強い影響を及ぼしていますが、それらはみなこの時代に誕生しました。
さて、晋と楚の対立が下火となると、それと入れ替わるように南方が騒がしくなってきます。現代の蘇州周辺を支配する呉が力をつけていきました。呉は、晋の支援も受けて、晋と対立する楚の後方を脅かします。そして紀元前506年、呉王の闔閭が、孫子として有名な孫武や、鳴かず飛ばずの故事で出てきた伍挙の孫で呉に亡命した伍子胥の補佐を得て柏挙の戦いで快勝し、続けて楚の首都を陥落させました。
楚は、西方の秦に救済され、かろうじて滅亡は免れます。
大国楚を滅亡寸前に追い込んだ闔閭は春秋の五覇のひとりに数えられることもある英雄ですが、南に国境を接する越との戦闘で命を落とします(BC496)。闔閭の息子の夫差は、越王勾践に勝利し父の恨みを晴らし(BC494)、その余勢をかって兵を北へ進め、会盟を主催して、覇者の座を北方の晋と争います。ところが北方遠征中に呉は越に攻められ、夫差は軍を帰します。そして紀元前473年、呉は越に首都を落とされ、あっけなく滅亡しました。
呉王の夫差は、父の闔閭が越王勾践に敗れて死んだあと、毎夜薪の上に寝て復讐心をかきたてたといいます。夫差との戦いで敗れた勾践は、苦いきもを寝起きのたびになめて屈辱を忘れまいとしたといい、これが臥薪嘗胆という言葉の語源です。
越王勾践が呉王夫差を油断させるために送り込んだのが、中国四大美女として必ず名前があがる西施です。西施が病気で苦しみ眉間をしかめているのをみた醜女がその顔を真似たのを人々が気味悪がったといわれ、ここから、むやみに人の真似をして物笑いとなるという意味の「顰みに倣う」という言葉が生まれました。
呉に勝利した越は、北方に遷都し、呉を受け継いで、次に述べる晋の分裂のころまで中原に勢力をふるいました。
春秋時代の後期になると、君主や公族の力が衰え、新興の豪族の勢力が強くなってきます。北方の晋では政治の実権を 六つの豪族が握ります。豪族間の激しい闘争により、そのうちの二氏が滅ぼされ、知、韓、魏、趙の四氏の争いとなります。紀元前453年、最も有力だった知氏を他の三氏が連合して滅ぼし、晋は事実上、韓、魏、趙に三分されました。そして紀元前403年、三氏は周王室に公式に独立国家として認められ、晋は滅亡しました。
東方の斉でも豪族間の争いがありましたが、田氏が他の氏族を滅ぼし専制の体制を確立します。紀元前386年に周王室に君主として認められ、これにより太公望から連なる姜氏の斉は滅び、田氏の斉が新たに始まることになります。
こうして、韓、魏、趙、斉、秦、楚、燕の七大強国が出揃い、時代は戦国時代へと移ります。