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円の歴史【第4回】第二次大戦時の驚愕の錬金術とハイパーインフレ〜コーヒーブレイクしながらわかる

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驚愕の錬金術「預け合い契約」

今回のお話の主役は、日本の主導で中国に設立された2つの中央銀行、及び、「預け合い契約」と呼ばれた銀行間の特殊な契約です。

2つの中央銀行というのは、連載の第3回でご説明した「中国聯合準備銀行」と「中央儲備銀行」のことなのですが、まずはそれらについて簡単におさらいしましょう。

中国聯合準備銀行は、中国の華北地域を占領した日本軍が樹立した「中華民国臨時政府」の中央銀行です。1938年3月の開業で本店は北京、中国聯合準備銀行券、通称「聯銀券」を発行しました。聯銀券は、北京など華北地域で流通し、聯銀券の1元は日本円の1円と交換することができました。

中央儲備銀行は、蒋介石を首班とする重慶の中華民国国民政府に対抗して、日本の強い影響力のもとで樹立された、南京を首都とする中華民国国民政府の中央銀行です。開業は1941年1月で、本店は南京、中央儲備銀行券、通称「儲備銀券」を発行しました。儲備銀券発行残高の40%以上の銀貨や金銀地金、日本円を含む外貨を保持しなくてはならないとされました。儲備銀券100元は日本円18円のレートで交換可能でした。

次に、「預け合い契約」というのは、もともとは、華北地域で流通する朝鮮銀行券を回収するために考案された仕組みです。

前回お話ししたとおり、華北地域を占領した日本は、現地での物資調達などのために、応急的に朝鮮銀行券を使用しました。そして1938年3月に中国聯合準備銀行が設立されると、聯銀券で朝鮮銀行券を回収することとしました。その朝鮮銀行券を購入するための聯銀券を、日本円を使って調達する方法として「預け合い契約」が考え出されました。

預け合い契約の仕組みは、朝鮮銀行が自行にある中国聯合準備銀行の預金口座に日本円を入金すると、それと同時に中国聯合準備銀行にある朝鮮銀行の預金口座に同額の聯銀元が入金されるというものです。つまり、朝鮮銀行が、一方的に「中国聯合準備銀行から日本円を預かったぞ」と宣言すると、中国聯合準備銀行内の朝鮮銀行の口座に連銀元が自動的に入金される、ということです。

預け合い契約は、中国聯合準備銀行と朝鮮銀行との間で1938年6月に締結され、翌月に横浜正金銀行との間でも締結されました。さらに1942年8月、上海など華東地域で広く流通していた軍票を、中央儲備銀行券を使って回収するために、中央儲備銀行と横浜正金銀行との間でも預け合い契約が締結されました。

預け合い契約を一言で言えば、「日本が現地通貨をいつでも、好きなだけ調達できるようにする契約」ということになります。日本はこの仕組みを、朝鮮銀行券や軍票を回収するために導入しましたが、やがて、軍事物資やその他の必要物資の購入用資金の調達手段として使用するようになっていきます。

その具体的な方法は、日本が現地軍が上海などで使用するための中央儲備銀行券を必要としている場合、まず日本政府が国債を発行して、日銀がそれを引き受けます。このとき、日本政府のバランスシートの負債の部には国債が、資産の部には日銀への預け入れが記入され、日銀のバランスシートの負債の部には日本政府の預金、資産の部には国債が記入されます。

次に、日本政府は日本円を横浜正金銀行へ送金します。すると、政府の資産の部の日銀への預け入れは、横浜正金銀行への預け入れに変わり、横浜正金銀行の負債の部に日本政府の預金が記帳されます。同時に日銀の負債の部は横浜正金銀行の預金に書き換えられ、横浜正金銀行の資産の部に日銀への預け入れが記帳されます。

そして、預け合い契約です。横浜正金銀行と中央儲備銀行との間の預け合い契約によって、日本政府の資産の部は中央儲備銀行への預け入れに変わり、中央儲備銀行の負債の部に日本政府の儲備銀元預金が記帳されます。同時に横浜正金銀行の負債の部は中央儲備銀行の預金に書き換えられ、中央儲備銀行の資産の部に横浜正金銀行への日本円の預け入れが記帳されます。

このようにして、現地日本軍は中央儲備銀行券を入手しました。

なお、以上の説明ですと、実は、日本政府が国債を発行して調達した日本円を中国に送金して、現地通貨に両替して使用する場合とほとんど変わらないのですが、その場合との大きな違いは、中国側の銀行は、預け合い契約によって、日本円の預金を日本円のままで引き出すことが禁じされていたことです。

つまり日本は、日本円の流通量を増やすことなく、中国の現地通貨をいくらでも発行することができた、ということができます。

これはすなわち、通常は政府がお金をどんどん刷ればインフレが発生しますが、日本は国内のインフレの発生の心配なく、現地通貨をどんどん刷って物資を調達することができたということであり、言い換えると、インフレは財政支出をその通貨を使用する人全員に負担させることを意味するので、戦場となっている現地の住民の負担で、日本の戦争は遂行された、ということになります。


現地軍の直接借り入れの開始と財政規律の崩壊

1942年8月に横浜正金銀行と中央儲備銀行との預け合い契約が締結され、その直後から儲備銀券の発行が急増します。

1942年時点の儲備銀券の発行残高は13億元でしたが、1942年の年末には2.5倍の34億元となりました。5ヶ月間で約21億元増加したのですが、そのおよそ6割の13億元が預け合い契約による儲備銀券の発行でした。

その後さらに加速し、半年後には91億元に達しました。57億元の増加分のうち、預け合い契約による増額は53億元と、そのほとんどを占めました。

その結果、当然のこととして、インフレが発生し、およそ1年間で物価は2.5倍となりました。

ところで、日本円と、中国聯合準備銀行の聯銀元とのレートは、聯銀券の発行が始まったときからずっと、1元が1円に固定されていました。また同様に、中央儲備銀行の儲備銀元も、発行開始のときから100元イコール18円に固定されていました。このため、大陸で現地通貨での支払い金額が増加すると、それに比例して、日本政府の会計上の軍事費が増加していきました。預け合い契約で中国側の銀行は日本円を引き出すことが禁じられていたので、日本円の市中流通量は増えませんが、臨時軍事費特別会計の歳出の金額は急増していったのです。

現地軍が支出を拡大したい時は、現地軍の経理課が、軍の本省の経理部に申請し、それを大蔵省が査定したのちに閣議決定がなされます。さらに衆議院と貴族院での審議を経て、国債発行限度額を増やす法律改正を行ないます。これでようやく国債の増発が可能となり、横浜正金銀行へ送金して、預け合い契約により現地の銀行より出金するという流れになります。

このような、何段階ものステップを踏むことで、軍事費の膨張に一応の歯止めがかかっていたのですが、預け合い契約により軍事費が急増し始めると、このような過程を経ている余裕がなくなってきます。

そこでまず、国債発行の限度額を法律で定める制度が撤廃されました。臨時軍事費特別会計の歳出額から歳入額を差し引いた額の国債発行ができる、と法改正がなされたのです。

そしてさらに、現地軍が必要とする資金は、現地軍が借り入れできることとされました。

これにより、現地軍の経理課は、直接横浜正金銀行から日本円を借り入れて、中央儲備銀行より儲備銀元を出金するということが可能となりました。

この制度は1943年4月1日に実施に移されましたが、すなわちこの日、儲備銀券の無限発行の準備が整ったのでした。また、華北でも同日に軍事費の現地借入が開始され、それ以降、聯銀券の発行残高も急増します。


ハイパーインフレーション!

現地軍の直接借り入れが始まると、現地通貨の発行の勢いが加速します。

儲備銀券の発行残高は1943年の12月に192億元、1944年の6月に384億元と、半年で2倍のペースで増加していきました。

これに伴い物価も上昇するのですが、その増加率をよくみてみると、1942年7月からのおよそ1年間は、儲備銀券の発行残高の増加率ほど物価は上昇しなかったのに、1943年6月からの半年間では物価上昇率が上回り、1943年12月からの6ヶ月では、儲備銀券の発行残高が2倍となったのに対し、物価上昇率は3.3倍にもなりました。

アメリカの経済学者、フィッシャーは、物価や通貨発行残高などの関係を、

貨幣量と貨幣流通速度の積は物価と取引量の積に等しい

という式で表しました。

当時の状況をこの式で考えてみると、

当時、物資の不足が深刻化していたので、取引量、Tは押し下げられていきました。

それから、インフレが加速してくると、人々は、紙幣を持っていると、持っているうちに損をしてしまうので、競ってものに替えようとし、そのため貨幣の流通速度、Vがどんどん上昇しました。

これらの結果、儲備銀券の発行残高の増加率を大きく上回って物価が上昇していったのです。

そして終戦の1945年8月には、儲備銀券の発行残高は2兆6972億元と、1年強の間に70倍となりました。一方で物価は、この期間に150倍にもなりました。

グラフは、1937年の日中戦争開戦時からの上海と重慶の物価の推移ですが、軍事費の現地借り入れの開始以降、日本占領地である上海の物価上昇は、蒋介石政権下の重慶に比べて、大幅に悪化していったことがわかります。

その結果、終戦時の上海の物価は、日中戦争開戦時の、実に86400倍となったのでした。

 


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