円の歴史【第6回】ニクソン・ショック〜コーヒーブレイクしながらわかる
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ブレトンウッズ体制下の米経済
第二次世界大戦の終結後、荒廃したヨーロッパを復興させるために、アメリカは、いまのお金で換算して、数十兆円規模の援助を行いました。当時のアメリカの国務長官の名前をとってマーシャル・プランと呼ばれる支援プロジェクトです。マーシャルプランが終わったあともアメリカは、同盟国への軍事援助を行ったり、その他の援助や資本の輸出を行いました。
グラフは第二次世界大戦直後から1950年代にかけてのアメリカの国際収支を示したものです。アメリカの貿易収支は黒字が続いていましたが、無償援助などの移転収支や、長期的な対外資産と負債の差額である長期資本収支なども合算した基礎収支は、図のように1949年以降マイナスとなっており、つまり、海外にドルがどんどん出ていく状態となりました。
アメリカの貿易黒字も、次第に縮小していきます。
ヨーロッパ経済が復興してくると、ヨーロッパ製品が国際競争力を回復し、アメリカの一人勝ちの状態ではなくなってきます。1960年代には日本やドイツが急成長し、ブレトンウッズ体制下での安い為替レートを武器にして輸出攻勢をかけてきます。
また、アメリカで発生したインフレーションがアメリカ製品の競争力を奪っていきます。グラフはアメリカのGNPの成長率、消費者物価の伸び率、失業率を示したものですが、1960年代のアメリカは好景気に沸き、1960年代後半は失業率がかなり低下し、それにやや遅れてインフレーションが激しくなります。ある国でインフレーションが発生すると、その国の輸出品は割高になり、国際競争力を失って売れなくなり、輸入品は割安になるので輸入が増えていきます。
それらの結果、1960年代後半からアメリカの貿易黒字は目に見えて減少していきました。
これに伴い、アメリカの金準備がみるみる減っていきます。グラフはアメリカの金準備の推移ですが、1952年からの15年間で、およそ半分となってしまいました。
世界各国の通貨がアメリカのドルにリンクし、ドルだけが金にリンクするというブレトンウッズ体制の背後には、圧倒的な経済力をもち、世界の金の80%を有しているアメリカは、いついかなるときでもドルを金に交換してくれるはず、という、厚い信頼感がありました。しかし、アメリカの金準備の減少に伴い、その信頼が揺らぎ始めます。
そのうえアメリカ経済は、1960年代末のインフレーションに対処するために実施された引き締め政策により、成長が鈍化し、1970年には失業率が5%近くにまで悪化します。しかし一方でインフレーションはおさまらず、景気後退とインフレーションが同時に進行するスタグフレーションの状態に陥ってしまいます。
つまり1970年ころのアメリカは、不況とインフレーションと国際収支の赤字の三重苦を抱えていたのです。
この三重苦を一気に解消する起死回生の策として、1971年8月15日、ニクソン大統領は新経済政策を発表します。 世界に衝撃を与えた、なかでも日本にとって戦後最大ともいわれる大打撃となる、ニクソンショックです。
ニクソン・ショック!
1971年8月13日金曜日の朝、アメリカの連邦準備銀行から財務省に、イギリスが30億ドルと金との交換を要求してきたとの連絡が入ります。
すぐに政府の首脳16名が大統領の山荘、キャンプデービッドに招集されて、午後3時から4時間にわたる会議が開かれました。そして政策ごとに作業グループにわかれて細部が詰められて、大統領の演説草稿が出来上がるのが、翌土曜日の朝でした。そして8月15日日曜日の午後9時、日本時間の8月16日午前10時、ニクソン大統領が新経済政策を発表します。
新経済政策の主な内容はこのとおりです。
物価と賃金の上昇を90日間停止することで、応急的にインフレを抑え、歳出削減によりインフレの根を摘みとる。しかしそれでは景気がさらに悪化してしまうので、合わせて減税も実施。ドルと金との兌換停止により金準備の流出を止める。そして、輸入課徴金によって輸入を減らすと同時に、諸国に、輸入課徴金を続けてほしくなければ自国通貨を切り上げるようにとの圧力をかけ、それによりドル安となれば貿易赤字が減り景気が浮揚される。
そうしてアメリカ経済の三重苦を脱しようという政策です。
このうち、日本をはじめとする諸国に衝撃を与えたのが、ドルと金との兌換停止と、10%の輸入課徴金です。
ニクソン大統領の政策発表はアメリカの日曜日の夜9時で、月曜日の夜明け前だったヨーロッパ諸国は外国為替市場を開かないことを決定しましたが、既に朝10時となっていた日本では、混乱を避けるためにマーケットを開けたままとされたため、円の切上げを予想したマーケット参加者によるドル売りが殺到し、1ドル360円の為替レートを維持しなくてはならない日銀は、必死にドルを買い支えました。
その週、ヨーロッパ諸国はマーケットの閉鎖を続けますが、日本はマーケットを開き続け、猛烈なドル売りに対して、日銀がひとりで買い向かい続けます。しかし、ついに8月28日、政府は1ドル360円のレートを維持することを諦め、レートの変動幅の制限を撤廃して、為替レートの自由な変動を認めることとしました。
その結果ドル円レートは一気に円高の方向に動き、8月28日のうちに1ドル342円となりました。
その後も円高基調は続き、1971年の12月には1ドル320円を切る水準まで円高となります。
9月以降、先進諸国は、新たなレートでの固定相場制への復帰を目指し、話し合いを繰り返しました。
当初アメリカは、日本など貿易黒字国に責任があるので、貿易黒字国が自国通貨を切り上げるべきと主張し、その他の国々は、アメリカが切り下げを行うべきとして対立しました。金との交換レートを切り下げる場合と、他国に切り上げさせる場合との経済的な意味はどちらでも同じですが、アメリカは、自国通貨を切り下げることは敗北であり、相手を攻撃して切り上げさせるということを重視したのです。
そして1971年12月、アメリカ・ワシントンD.C.のスミソニアン博物館で先進10カ国蔵相会議が開催され、ドルと金との交換レートは1オンス35ドルから1オンス38ドルへ切り下げられ、円は1ドルイコール308円とされました。ドルは金に対して約8.6%切り下げられ、円はドルに対して16.9%切り上げられましたが・金に対しては7.1%の切り上げなので、ドルと円が、対金で、ほぼ同程度の変更を行なった、ということになります。
ドルと円のレートが決まると、ドルとその他約50カ国の通貨とのレートも、ドル円レートを参考にして決定されました。各通貨の対ドルでの調整率はこのとおりであり、日本円の変更幅は最大となりました。
また、為替レートの固定レートからの変動幅をブレトンウッズ体制下での上下1%から2.25%に拡大すること、アメリカが設けた10%の輸入課徴金の廃止、なども決定されました。
こうしていったんは固定相場制度に復帰したのですが、アメリカのマクロ経済政策に大きな変化がなく、財政赤字やインフレが続いたことや、何十年も変更されなかったドルの対金レートが、一度切り下げられると、二度目、三度目もあるに違いないという予想がなされ、投機筋の攻撃がかけられたことなどから、その後もドルへを売って、金や、円、マルク、スイスフランといった通貨を買う動きが続きました。
1973年1月にスイスが暫定的に変動相場制に移行します。2月には、ドルの対金レートが再度切り下げられ、1オンス42.22ドルとされました。その直後、日本は変動相場制度へ移行します。そして3月、西ヨーロッパの6カ国(西ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、オランダー、ルクセンブルク)が、域内は固定相場を維持しつつ、域外とは変動相場制に移行しました。既に1972年6月に、激しいポンド売りにさらされたイギリスが固定相場を放棄しており、スミソニアン協定からわずか1年と3ヶ月で、先進国のほぼ全てが変動相場制に移行し、スミソニアン協定は崩壊しました。
そして1976年1月、ジャマイカのキングストンで開催されたIMF暫定委員会において変動相場制が承認され、1オンス42.22ドルという金の公定価格は廃止されて、長く続いた固定相場制度の時代が正式に終わりました。
ニクソン・ショックの意義
ニクソン・ショックがあった1971年は、日米間の繊維製品をめぐる摩擦が激しくなっていたころです。日本より一足早く貿易黒字の超過傾向が定着していた西ドイツは、既に数度にわたる切上げを実施していたので、ニクソン大統領は、怒りの矛先を、1970年前後になって貿易黒字を急拡大した日本に向けました。
ニクソン・ショックは世界中を巻き込んだ事件ですが、その実は日本を狙い撃ちにしたものでした。それゆえスミソニアン協定で日本円の調整率が最も大きかったのは、当然のことだったと言えます。
ニクソン・ショックの演説が行われたのは8月15日です。ニクソン大統領は、日本人が26年前に玉音放送で敗戦を知ることになった日付を選ぶことによって、日本をあらためて屈服させる、という意味を演説に密かにこめたのかもしれません。
ニクソン大統領の演説は、第二次世界大戦による荒廃からアメリカの援助によって復興した国々に対し、アメリカは不当に不利な条件のもとで競争を強いられている、という趣旨の一節でしめくくられています。つまり、悪いのは貿易黒字国であり、アメリカは一方的に損をしている、と訴えたのです。アメリカが切り下げるのではなく、相手国が切り上げるべきと主張するのも、輸入に課徴金を課すのも、その考え方が根底にあります。
ブレトンウッズ会合では、貿易黒字国にも責任があるとするイギリスのケインズに対し、アメリカのホワイトは貿易赤字国の責任を重視し、結局はアメリカの国力がものをいい、ホワイト案が採用されてブレトンウッズ協定が作成されました。ところが四半世紀を経て、貿易赤字国に転じたアメリカは、手のひらを返して、貿易黒字国の責任を問うたのでした。
赤字国に責任はなく、悪いのは黒字国であるという考え方は、ニクソン・ショック以降定着し、1980年代の日米貿易摩擦や、最近の米中貿易戦争においてもそのまま継承されています。
アメリカにとってニクソン・ショックは、おそらくは当初から意図されたものではない、非常に大きな意義がありました。
ブレトンウッズ体制下で、ドルは、確かに基軸通貨ではありましたが、金兌換通貨でもあるので、常に金の保有量による制約を受けていました。しかし、ニクソンショックからスミソニアン協定、キングストン協定へと続く一連の流れを経て、金は完全に役目を終え、ドルは金の呪縛から解放されました。アメリカは金の保有量を一切気にせずに通貨の発行量を自由に決めることができるようになり、これによりドルは、真の基軸通貨となったのでした。赤字や債務の積み上がりに怯える必要もほとんどなくなりました。世界の通貨の発行権限を持ち、世界の人々の負担で自由に政策運営ができるアメリカは、まさに地球政府のような存在となりました。アメリカは、第二次世界大戦終結時の圧倒的だった国力を失った結果、ニクソン・ショックに追い込まれたのですが、ニクソン・ショックによって、第二次世界大戦終結時には不完全だった覇権国の地位を、確固たるものにしたのです。