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パレスチナ問題とイスラエルーUAEの国交樹立

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1. イスラエルの建国

パレスチナとは、イスラエルやヨルダン川西岸地域一帯のことをいいます。

パレスチナ問題を考えるためには、時代を2000年以上遡ってみる必要があります。

紀元前にはパレスチナにユダヤ人の王国が存在していましたが、周辺の大国の侵略を継続的に受け、「紀元」前後にローマ帝国によって滅ぼされてしまいます。ユダヤ人たちはパレスチナから逃げ出し、世界各地へ離散しました。

このうち、ヨーロッパへ行ったユダヤ人たちは、イエス・キリストが十字架にかけられることを望んだとされることや、独特な習俗や閉鎖性、金融資本の独占などの理由により大変な差別を受けました。

近代になり、ユダヤ人たちは安住できる地を求め、パレスチナに戻ろうという運動を始めます。シオニズム運動です。

しかしパレスチナには、既にイスラムの人々が居住しています。それに、かつてのユダヤ人の王国の首都であったエルサレムは、キリスト教徒にとってもイエスが十字架にかけられた聖なる場所ですが、イスラム教徒にとっても、ムハンマドが天に昇り天の声を聞いた聖地であり、簡単にてばなすことができる場所ではありません。

加えて、イギリスの外交政策が事態を複雑にします。

第一次世界大戦で、パレスチナを支配するオスマンテイコクは、ドイツなどの同盟国に加わりイギリス等連合国と敵対しました。

イギリスはオスマン帝国を攻撃するにあたり、アラブ勢力に対して、オスマン帝国と戦うことを条件に戦争終結後のアラブ全域の独立を約束しました。同時に戦争資金を得るために、ユダヤ人たちにパレスチナに住む場所を建設すると約束しました。さらにイギリスはフランスとロシアとオスマン帝国崩壊後にその領地を三国で分割するとの協定も結んでおり、このイギリスの三枚舌外交がのちのパレスチナ問題の大きな原因となります。

第一次世界大戦の終結後、旧オスマン帝国領のうちの、パレスチナは、イギリスが委任統治することとなり、ユダヤ人たちは約束に基づいてパレスチナに移住してきました。ユダヤ人入植者が増えるにつれてアラブ人との摩擦が強まり、アラブ人によるイギリスやユダヤ人に対する大規模な抵抗運動につながります。しかし、ドイツによるユダヤ人迫害の影響もあって、ユダヤ人の入植者の数は増え続けました。

そして第二次世界大戦が終わり、国際連合でパレスチナの分割案が成立しました。これは、図のように、パレスチナを分割してユダヤ人とアラブ人のふたつの国家を建設し、エルサレムは国際管理下におくというものでした。ユダヤ人側はこの分割案を受け入れ、1948年5月にイスラエルの独立宣言を行いました。


2. 四度の中東戦争

イスラエルが独立宣言を行うと、その翌日、それを承認しない周辺のアラブ諸国が一斉に攻め込みました。第一次中東戦争です。

しかしイスラエルはアラブ諸国の侵攻を押し返し、のみならず、国連の分割案よりも広い地域を占領しました。1949年1月に結ばれた休戦協定では、イスラエルは領域を40%以上増やしました。このときの境界線はグリーンラインと呼ばれ、その後、現在に至るまでの国際的に認知された国境線となっています。この戦いののち、ガザ地域はエジプトが、ヨルダン川西岸地域はヨルダンが獲得しました。聖地、エルサレムについては、西部はイスラエルが、東部はヨルダンが占有しました。

つまり、結局パレスチナ人の国家は実現せず、パレスチナ人およそ70万人が難民となりました。

1956年、エジプトによるスエズ運河の国営化を怒ったイギリスが、フランスとイスラエルと手を組んでエジプトに侵攻しました。第二次中東戦争と呼ばれる戦いです。英仏軍はスエズ流域を攻撃し、イスラエルはシナイ半島を制圧しましたが、アメリカやソ連を含む国際社会から強い非難を受け、結局三国の軍は撤兵を余儀なくされました。

1967年6月、第三次中東戦争が勃発します。イスラエルからインド洋へとつながるアカパ湾をエジプト軍に封鎖されたことや、エジプトやシリアが攻撃しようとしているとの情報を得たことなどから、イスラエルは先制攻撃をしかけ、わずか6日間でシナイ半島を制圧し、エジプトが支配していたガザ地区、ヨルダンが支配していたヨルダン川西岸地域と東エルサレム、シリアのゴラン高原を占領しました。

イスラエルはこの戦争で実効支配する領域を大きく広げましたが、その一方で100万人を超えるパレスチナ人の難民が発生しました。エルサレム全域を支配することとなったイスラエルは首都をここに動かしましたが、これによりイスラム教徒の聖地のある旧市街がユダヤ人の手に落ち、イスラム教徒は嘆き、憤慨しました。

開戦から5ヶ月が経った1967年11月、国連安全保障理事会は、イスラエルがこの戦争で占領した地域から撤退することを求める決議を行いました。この安保理決議242号は、このあと現在に到るまで、パレスチナ問題においてしばしば引用される重要な決議です。

そして1973年、第四次中東戦争が起きます。第三次中東戦争でイスラエルに占領された地域を奪還したいエジプトとシリアはイスラエルを奇襲しました。不意をつかれたイスラエルは後退し、緒戦はアラブ側の勝利となりましたが、体制を整えたイスラエルが反撃に転じて、エジプト、シリア軍を押し返したところで停戦となりました。

その後エジプトのサダト大統領は、戦争が財政を逼迫していることなどから、イスラエルとのあいだの和平に方針を転換します。1979年、エジプトとイスラエルのあいだで平和条約が締結され、エジプトはイスラエルを国家として承認し、イスラエルはエジプトにシナイ半島を返還しました。

アラブ諸国のなかで中心となってイスラエルと対立していたエジプトが和平に動いたことから、対立の軸はイスラエル対「パレスチナ」解放機構、PLOに移ります。

1982年、イスラエルはPLOが拠点を置くレバノンに攻め込みました。レバノン南部を制圧し、首都ベイルートを激しく空爆しました。その結果、PLOはレバノンを退去せざるを得なくなり、チェニジアに本拠を移しました。

このとき、マロン派キリスト教徒がパレスチナ難民キャンプで大規模な虐殺を行いました。これによりイスラム教徒のあいだで、虐殺行為に間接的に関与したイスラエルや、イスラエルをサポートするアメリカに対する憎しみが深まりました。

1987年頃から、イスラエル占領下のパレスチナ人の一斉蜂起、インティフォーダが広がりました。ガザ地区の民衆により自然発生的に始まった運動で、女性や子供を含むパレスチナ人が石を投げたりタイヤを燃やしたりしてイスラエル軍に立ち向かいました。この民衆運動は世界の注目を集め、その後の第三国の仲介による和平の動きにつながっていきます。


3. 二国家共存とオスロ合意

1988年、PLOが大きな方針転換をおこないます。それまでPLOは、イスラエルを打倒し、追い出すことによってパレスチナを解放することを目指していましたが、1947年の国連のパレスチナ分割決議を受け入れて、イスラエルと共存しヨルダン川西岸とガザ地区にパレスチナ国家を建設することを目指す方向に舵を切りました。「二国家、共存構想」です。

そして、1988年11月、パレスチナ国の独立を宣言し、アラファト議長が初代の大統領となりました。日本やアメリカなどは、確定した領土をもっていないなどの理由によりパレスチナ国を承認していませんが、アラブ諸国のほか、ロシアや中国、南米諸国、アフリカ諸国など、現在までの約140の国が国家として承認しています。

1993年、PLOが二国家共存の方針に転換したことや、イスラエルがインティフォーダにより他の民族を統治することが難しいと悟ったこと、湾岸戦争を経て中東問題の解決を求める国際世論が高まったことなどを背景として、ノルウェーのオスロで歴史的な合意が結ばれます。これによりPLOはイスラエルの、イスラエルはPLOの存在を公式に認めました。また、イスラエル軍がヨルダン川西岸とガザ地区から撤退すること、パレスチナ自治政府による自治を開始すること、自治開始から3年以内にエルサレムや難民、入植者、境界線などについて協議を開始し、5年以内に和解を達成することが約束されました。

オスロ合意の翌年の1994年、ヨルダンがイスラエルとの平和条約を締結しました。1995年にはパレスチナの自治の範囲が拡大し、1996年にはパレスチナ自治政府の議会と大統領の選挙が行われ、アラファト議長が大統領に就任しました。

しかし、その後はオスロ合意の具体化はほとんど進展しておらず、むしろ後退しているといったほうがいいような状態になっています。

2004年のアラファト議長の死後、パレスチナは、穏健派のファタハと、イスラム原理主義過激派のハマスに分裂します。ガザ地区をハマスが支配すると、イスラエルはガザ地区を封鎖し、人やモノの出入りを大きく制限しました。ガザ地区とイスラエルとは激しく対立し、ときに武力衝突も生じました。2014年にはヨルダン川西岸とガザ地区との分裂状態は解消されますが、その後もイスラエル軍とパレスチナ人デモ隊との衝突などが起きています。

イスラエルは、ガザ地区からは入植者を退去させたのですが、ヨルダン川西岸のユダヤ人入植者は増え続け、その人数は40万人にもなっています。ヨルダン川西岸は、オスロ合意のあと、3つの地区に分けられました。

A地区はパレスチナ政府が行政権、警察権をもつ地区、B地区はパレスチナ政府が行政権、イスラエル軍が警察権をもつ地区、C地区はイスラエル軍が行政権、警察権をもつ地区です。実質的にイスラエルの統治下であるC地区の面積は約60%を占めるに至っています。パレスチナ政府が行政権を持つ残りの40%の地区は細切れであり、イスラエルの統治下の地区を通らなければ自由に移動もできない状態となっています。

イスラエルは、ヨルダン川西岸を取り囲むように分離壁を建設しつつあります。分離壁は、ユダヤ人入植地を取り込むように建設されているため、グリーンライン、すなわち1949年の停戦ラインを越え、ヨルダン川西岸地域に食い込んでいます。

聖地、エルサレムについては、既に述べたように1947年に国連により信託統治されることとなりましたが、第一次中東戦争後に西部をイスラエルが、東部をヨルダンが実効支配しました。第三次中東戦争でイスラエルがエルサレム全域を占領し、東エルサレムを併合することと、エルサレムを首都とすることを宣言しました。しかしそれは国際的には承認されておらず、パレスチナ自治政府もエルサレムを首都とするとしています。

そして2017年にアメリカのトランプ大統領がエルサレムをイスラエルの首都と認めるとし、その後まもなくアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムへ移転しました


4. イスラエルーUAEの国交樹立

2020年1月、アメリカのトランプ大統領が独自の和平案を示しました。パレスチナに対し、ユダヤ人入植地と、ヨルダン川流域の、イスラエルへの併合、エルサレムをイスラエルの首都と認める、等の条件の受け入れを求め、代わりにパレスチナコクの建設と、その首都を東エルサレムの周辺部に置くことを認める、というものです。トランプ大統領はこれを「世紀のディール」と表現しました。

しかしこの和平案は、イスラエルが第3次中東戦争で占領した土地を自国の領土にしてしまうことを意味し、国連安保理決議242号に反しています。

また、和平案で提示されたパレスチナ国の領土は図の通りですが、これではパレスチナ国はイスラエルに周囲を囲まれてしまううえに飛び地だらけになってしまいます。さらに、首都の場所は東エルサレムではなく、その周辺とされており、イスラム教の聖地があるキュウシガイなどが含まれません。

パレスチナ側は和平案を即座に拒否しました。

一方、イスラエルのネタリヤフ首相は和平案を歓迎し、パレスチナ側の拒否にもかかわらず、7月1日以降にヨルダン川西岸の一部を併合する準備を始める姿勢を示しました。ネタリヤフ首相は2019年春の総選挙でヨルダン川西岸の併合を公約しており、公約の実現を目指したのです。

ところが2020年8月、世界を驚かすニュースが飛び込んできました。イスラエルとアラブ首長国連邦(UAE)が国交正常化で合意し、同時にイスラエルはヨルダン川西岸の併合を棚上げにしたのです。

アラブ諸国でイスラエルと国交を結ぶのは、エジプト、ヨルダンに次いで3国めとなります。 オスロ合意とそれに続くイスラエル、ヨルダンの国交正常化以降、ほとんど進展が見られなかったイスラエルをめぐる中東情勢が、約四半世紀ぶりに大きく動いたのですが、その理由はなんでしょうか。

アラブ首長国連邦にとっては、高度な科学技術をもつイスラエルと連携して技術立国を目指し、石油依存から脱却することは、経済的にプラスです。

軍事的脅威である隣国イランに対抗するために、イランの敵であるイスラエルと連携し、イラン包囲網を作ることは、安全保障の観点から意義があります。

また、イスラエルにヨルダン川西岸の併合を停止させたことで、国交正常化に大義名分ができ、アラブ諸国に「足並みを乱した」と批判されることを避けることもできるでしょう。

一方、 イスラエルのネタニエフ首相が、選挙公約であるヨルダン川西岸の併合を停止してまでも国交正常化を選んだのは、新型コロナウイルスが流行するなかで、今はコロナ対策に集中すべきとの国内世論があることや、入植者のなかにも、併合と引き換えに、残りの地域にイスラエルの力が及ばなくなれば、入植地がパレスチナ国のなかの陸の孤島になってしまうと懸念し、反対する声が少なくないことなどが理由のようです。


Some clues...

省略(動画本編でご覧ください)

 


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