ミャンマーの混迷〜コーヒーブレイクしながらわかる
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ミャンマーの概要と歴史
まず、ミャンマーという国について、簡単にみておきましょう。
ミャンマーの面積は約67万平方キロメートルで、日本の約1.8倍もの広さがあります。
人口は5400万人で日本の半分ほど。人口の6割をビルマ族が占めますが、135の少数民族が暮らす多民族国家です。宗教は、国民のおよそ9割が仏教徒です。
米作が盛んで、一人当たりのGDPは15万円ほどです。これは、ASEANの10カ国のうちで最少であり、他のアジアの国々が発展するなかで、まだ開発の余地が大きいことから、「アジア最後のフロンティア」とも言われています。
首都は、もともとは海に近いヤンゴンでしたが、2006年に内陸のネピドーに遷都されました。
ミャンマーの歴史についてみると、11世紀頃にはチベット系の仏教国家、パガン王朝が開かれていました。バガン王朝は、13世紀に4度にわたる元の侵攻を受け、14世紀初頭に滅亡します。その後、小国が分立する時代や、タウングー王朝の時代を経て、18世紀のコンバウン王朝のときに、タイのアユタヤ王朝を滅ぼすなど、隆盛を極めます。
しかし19世紀に入ると、イギリスの侵攻を受け、コンバウン王朝は滅び、1886年にインドの一部としてイギリスの植民地とされました。
第二次世界大戦が始まると、アウンサンを中心とする三十人の志士と呼ばれる若者たちが日本軍の支援でビルマ独立義勇軍を創設して、日本軍とともにイギリス軍を追い出しました。そして1943年、日本の後援でビルマ国が建国されました。しかし、独立したとは言っても、実際には日本の支配下に置かれたことや、日本の敗色が濃厚となったことから、アウンサンらは、イギリスとともにビルマ国と日本に対してクーデターを起こし、1945年に日本の追い出しに成功します。ただ、イギリスは独立を認めず、ミャンマーは再びイギリスの植民地とされ、その後アウンサンは、生涯をかけたミャンマーの完全独立をみることなく、暗殺されてしまいます。
第二次世界大戦後、世界的な植民地独立の流れの中で、ミャンマーも1948年にビルマ連邦として独立を果たします。
しかし独立の直後から少数民族のカレン族が独立闘争を行うなど、政権は不安定な状態でした。1962年には、ネ・ウイン将軍によるクーデターにより軍事政権が誕生し、産業を国有化するなど、軍事独裁の社会主義国家となりました。
ベルリンの壁が壊される1年前、ソ連崩壊より3年早い1988年、ミャンマー全土で起こった民主化要求デモによりネ・ウイン将軍を中心とする社会主義政権が倒れます。しかし民主化はすぐには進まず、クーデター政権により軍部が再度政権を掌握しました。国民の強い民主化要求の中で、軍部は総選挙の実施を約束し、総選挙の結果、英雄アウンサンの娘のアウンサンスーチー氏が率いるNLD(国民民主連盟)が圧勝するのですが、政府は、軍政から民政に移行するためには新憲法が必要であるとして、政権の委譲を行いませんでした。アウンサンスーチー氏は1989年に自宅に軟禁されてしまいます。
なお、この1989年には、国名のビルマやかつての首都であったラングーンが、それらはイギリスにより命名されたとして、ミャンマー、ヤンゴンにそれぞれ改称されました。
2000年代に入ると、ようやく民主化が進み始めます。2003年、政府は「民主化へのロードマップ」を発表し、政府主導の民主化プロセスを推進する方針を打ち出します。そのロードマップに沿って新憲法制定のための国民投票が実施され、2008年に新憲法が採択されました。2010 年には、新憲法に基づいて20年ぶりに総選挙が実施され、総選挙終了直後にアウンサンスーチー氏の自宅軟禁は解除されました。2015年に行われた総選挙ではNLDが圧勝します。これにより半世紀余りに及んだ軍政に一応の終止符が打たれました。
ただし、憲法では、大統領は、軍事的知識があることや、親族に外国人がいないことが条件とされているため、アウンサンスーチー氏は、NLDの党首でありながら、文民であり、死別した夫がイギリス人であることから大統領に就任できず、国家顧問という肩書きとなりました。また、議会の議席数の4分の1は軍人でなければならないとされているので、軍の強い影響力が継続しました。軍の影響力を削ぐために憲法を改正しようと思っても、憲法改正には4分の3の賛成が必要とされているため、軍の意に反して憲法を改正することは不可能な仕組みとなっています。
2021年のクーデター
軍事政権下のミャンマーは、事実上の鎖国状態にありましたが、2008年に憲法が制定されて、2010年に総選挙実施され民主化が進むと、経済が開放され、アジア最後のフロンテイアと言われるミャンマーへの、日本を含む海外からの投資が大いに盛り上がりました。この結果経済は好調で、年8%前後の高成長を実現しました。
2015年の総選挙は、こうした状況の中で行われました。与党である国軍系のUSDP(連邦団結発展党)が、経済の好調を背景にして議席を伸ばすことが予想されましたが、結果はNLDが過半数議席を獲得して、政権が移譲されました。
その後NLDが政権運営を行い、行政制度の改革や教育や医療分野などで一定の成果を出しますが、経済についてはめだった成果は得られませんでした。また少数民族の問題で進展できず、2017年にロヒンギャと呼ばれるミャンマー西部に多く居住するイスラム教徒を軍が弾圧し、虐殺や迫害が行われ、60万人の難民が発生した問題では、これを傍観し、このためアウンサンスーチー氏に対する国内外の評価が大きく下がりました。
このため、2020年11月に行われた総選挙では、NLDは議席数を減らし、過半数を獲得するのは難しいのではないかとの憶測が広まりました。しかし結果は、連邦議会の定数664のうち、治安の悪化で選挙が行われなかった選挙区分と、軍人に割り当てられている分を除いた476議席が改選となったのですが、USDPは議席を減らし、NLDは、改選数の83%の396議席を獲得し、単独過半数を大きく上回って、前回総選挙を上回る大勝となりました。
この結果を受け国軍は、「選挙に大規模な不正があった」と主張しました。
そして、総選挙後初の議会が開かれ、NLD政権が2期目に入るはずだった2月1日の早朝に、軍がクーデターをおこしました。大統領やアウンサンスーチー国家顧問などが拘束され、国軍の総司令官が全権を握りました。
報道によると、クーデターの直後には一時的に携帯電話が使えなくなったり、銀行業務が停止したり、証券取引所が閉鎖されたり、空港への道路が閉鎖されたりしました。クーデターに対する抗議行動が激化し、各地で兵士や警察が抗議者に発砲し、600人を超える死亡者も出ている模様です。国軍は3月14日にヤンゴンの2地区に戒厳令を出し、翌15日にさらに4地区に戒厳令を施行しました。情報統制を強めるため、インターネットの遮断が頻繁に行われており、抗議活動を煽っているとの理由で、人気モデルや俳優など著名人が相次いで拘束されています。
軍部はクーデターの理由として選挙に不正があったことを挙げていますが、その証拠はほとんどなく、軍部の真意は別のところにあると思われます。それがなんであるかははっきりとはしていませんが、次のようなことが考えられます。
まず、軍は、2015年の選挙では、経済運営がうまくいっていたのに敗北し、2020年は、NLDの政策が必ずしもうまくいっていなかったにもかかわらず負けたことで、軍政に対する国民の反発は思いのほかに強いことが明らかとなり、このまま民政を続ければ、地盤沈下の流れは一層進むという危機意識を持ったのではないかと考えられます。
それから、アウンサンスーチー氏は、2020年の総選挙までは、国軍の権益を大きく減らしたりせず、ロヒンギャ弾圧でも傍観の姿勢をとるなど、国軍と融和的な態度を示していました。しかし総選挙後は、選挙での大勝を背景にして、国軍からの選挙で不正があったとの主張に対して対応しなかったり、国軍の地位を守っている憲法の改正に意欲を示したりしているため、このままでは自分たちの地位が危なくなると考えたのではないかと思われます。
今後については、軍は1年間の非常事態を宣言したので、軍政は少なくとも1年間にわたって続くとみられます。しかし、いつまでも軍政を続けられるかというと、国民、特に若者が、民政のもとでの自由を知ったことや、国際的な孤立が長引けば経済的な損失が大きいことなどから、非常に困難と言うるでしょう。軍は1年間の非常事態宣言発令中に軍が過半数を獲得できるような状態にしたうえで総選挙のやり直しを行うことを目指すとも考えられます。ただ、現行の憲法でも軍に十分に有利な制度となっているので、事態をこじらせれば、今の有利な状況をも失うことになる恐れがでてきます。このため軍は、「我々を軽んじればこうなる」という脅しをきかせたことで目的を果たしたと考えて、NLDに政権を戻す道を探ることになるのではないでしょうか。
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省略(動画本編でご覧ください)