中国戦国時代〜ビジネスパーソンなら知っておきたい
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戦国最初の覇者 魏の文候
大国、晋の分裂により始まった戦国時代の、最初の主人公は魏の文候です。文候は、儒家の史家を師に迎え、李悝、西門豹、呉起といった有能な人材を集めました。理解は豊作の年に穀物を買い入れ、凶作の年に放出して物価の安定をはかり、歴史的な成文法を定めました。西門豹は非常に優れた行政官として末代まで語り伝えられる人物です。
呉起は孫子と並び称される兵法家です。魏を当代の最強国家へと導き、また、魏の西方の広大な地方の太守として、秦を打ち破りました。
文候の在位中の紀元前403年、晋から分裂した魏、趙、韓の三国が周王によって正式に諸侯として承認されており、この時をもって戦国時代が始まるとする説もあります。
文候の死後、呉起は楚に移り、楚の首相である令尹に就任します。そして富国強兵を成し遂げて、南越を平定し、蔡、陳の両国を併合するなど楚の国力を大いに高めました。ただ、楚は、呉起の死とともに、呉起の導入した法を廃止するなど、旧来の体制に戻ってしまい、その後の発展の機会を逃してしまいます。
紀元前386年、太公望から連なる姜氏の斉が、田氏に乗っ取られました。
紀元前375年、春秋時代の初期に勢力を誇った名門の鄭が韓によって滅ぼされます。
衛の出身で、魏を経て秦へ亡命した商鞅が、厳格な法治主義を基本として、富国強兵をめざす改革を実施しました。これにより秦は国力を大いに増強しました。なお、呉起のケースではその死後に法は廃ってしまいましたが、商鞅の死後も秦では法が実践され、これがのちの秦の全国統一の礎となりました。
東方の斉は、積極的な人材登用によって戦国時代最初の覇権国となった魏の成功に刺激され、各地から多数の学者を集めました。これらの学者は稷下の学士と呼ばれます。斉の威王はこの人材を重視する姿勢により力をつけていきます。
紀元前354年、魏が趙を攻撃し、首都を囲まれた趙は斉に救援を求めます。斉の威王は、軍師の孫臏の立てた策で、手薄になっている魏の本国に軍を派遣して、趙から引き返してきた魏軍を桂陵の地で打ち破りました。その13年後、魏が韓を攻め、韓が斉に救援を求めます。斉軍は孫臏の策により馬陵で魏に快勝し、これにより中原諸国の覇権は魏から斉へと移りました。
孫臏は、春秋時代の呉の軍師であった孫武の子孫であるとされ、孫武と同じく孫子と呼ばれる人物です。斉の威王に仕える前に、兵法の学友である魏の将軍龐涓に騙され、膝の骨を砕かれる刑を科せられ歩けなくなってしまいます。その後、魏との戦いで勝利し龐涓を倒し、戦場で堂々とかたきを討ったのでした。秦斉趙の拡張
秦の国力を大いに増強した商鞅が魏に侵攻します。魏は、安邑から大梁への遷都を余儀なくされました。魏の弱体化は決定的となり、東の斉と西の秦の二大強国の時代に移っていきます。
この時代以降の中原諸国にとって、国際関係上の最重要課題は、東へと勢力を拡張しようとする秦にいかに対処するかということです。中原諸国で連合して秦に対抗する合従策や、それぞれが秦と連携する連衡策をとるようになります。合従連衡策をとりまとめる役を担ったのが、蘇秦、張儀、公孫衍などの、いわゆる縦横家です。
紀元前318年、魏、趙、韓、燕、楚の合従が成立し、魏の公孫衍が魏、趙、韓と北方の遊牧民族国家義渠の連合軍を組織して秦に侵攻しました。しかし、秦の将軍、樗里疾に大敗してしまいます。
紀元前316年、秦は南方の蜀を制圧し、広大な後背地を手に入れ経済力を強化しました。
同じころ、燕で内紛があり、その混乱に乗じて、斉が攻め込み、一時的に燕を従属下におきました。
趙の武霊王は、北方の遊牧民族の騎馬戦術を採用する軍事制度改革を断行しました。これにより軍事力が大いに強化された趙は全盛期を迎えます。武霊王は北方へ領土を拡張し、事故死した秦の武王の後継争いに介入し、昭襄王を王位につけました。また、連年、中山国を攻め、趙は紀元前296年にこれを併合します。
中華の貴族は一般的に、スカート状の服を着て、馬にひかせた戦車に乗って戦いましたが、武霊王は乗馬に適したズボン式の服を着て、馬に乗って戦うスタイルに変えようと考えました。中華の人々にとって遊牧民族の服装や戦い方は野蛮であり、臣下たちは強く反対しましたが、武霊王は粘り強く説得し、胡服騎射の導入に成功しました。
斉の隆盛と失速
南方の楚は、懐王が秦の張儀の謀略に振り回されたあげくに秦との戦いに大敗し秦に幽閉されて死んだり、紀元前301年の垂沙の戦いで秦、魏、韓、斉の連衡による連合軍に敗退したりして、大幅に国力を落としてしまいます。
垂沙の戦いを主導したと考えられる、孟嘗君は、戦国四君の一人として名の通る人物です。数千人にも及ぶ食客を抱えていたといわれ、斉と魏の宰相をつとめました。
秦の昭襄王は、名声の高い孟嘗君を宰相として迎えるために秦に呼び、そのまま幽閉してしまいました。孟嘗君は、盗みのうまい食客に盗ませた衣を王の寵姫に贈って幽閉から逃れ、にわとりの鳴き真似がうまい食客のはたらきで夜のうちに函谷関の関を通過して脱出したという故事から、とるにたらない人物でも役にたつ、という意味で鶏鳴狗盗という言葉が用いられるようになりました。
斉に戻って宰相に就任した孟嘗君は、紀元前296年に斉、魏、韓の合従連合軍を主導して秦を攻撃し、勝利しました。
その後、秦を敵視する孟嘗君は宰相の職を罷免され、斉と秦は友好的関係となり、両者に挟まれた国々を侵食していくようになります。
紀元前293年、秦の将軍、白起が、伊闕の地で、倍の兵力の魏、韓、周の連合軍に大勝しました。翌年以降も魏を攻め、その結果秦は黄河の東側の広大な領域を手に入れます。
紀元前286年、斉が、魏、楚と連合軍を組んで宋を滅ぼしました。
楚は垂沙の戦いの敗北の頃から弱体化しており、武霊王の軍事改革で強国となった趙も、武霊王の死で勢いを失ってしまっていて、斉が主導した宋の滅亡で、斉と秦の東西二大強国が中華を牛耳る形がより鮮明となりました。
秦の昭襄王は、孟嘗君を宰相として迎えると称して秦に呼び、幽閉した。孟嘗君は、盗みのうまい食客に盗ませた衣を王の寵姫に贈り幽閉から逃れ、にわとりの鳴きまねがうまい食客の働きで暗いうちに函谷関を通過し脱出した。この故事から、とるにたらない人物でも役にたつという意味の鶏鳴狗盗という言葉が用いられるようになった。
ところが、この状況はひとりの将軍の登場により一瞬で幕を閉じることになります。趙によって滅ぼされた中山国の出身で燕の将軍、楽毅を、総司令官とする燕、趙、韓、魏、楚の五カ国連合軍が紀元前284年に斉に攻め込み、斉軍を撃破しました。楽毅は五カ国連合軍を解散したのちも斉の城を次々と落としていき、半年のあいだに辺境の2城を残して斉のほぼ全域を制圧しました。
燕の昭王に優秀な人材を得る方法を問われた郭隗という人が、「まずは自分のようなつまらない人間を優遇してください。そうすれば、すぐれた人材が続々と集まるでしょう」と述べ、昭王がそのとおりにしたところ楽毅を得ることができた、という故事より隗より始めよという言葉が生まれました。
その後斉は領土を回復しますが、以前の勢いは完全に失われ、以降は秦の一強の時代となります。
秦一強の時代
紀元前278年、秦の白起は楚を攻め、その首都、郢を陥落させました。楚は遷都を余儀なくされます
このころ、魏から亡命してきた范雎が秦の昭襄王に登用されます。秦は范雎の遠交近攻、つまり、遠くの国とは連携し、近くの国を攻める対外政策を採用し、まず韓に攻めかかります。
白起は韓の中央部分を攻めとって、韓を南北に分断します。飛び地となった韓の北側部分の上党郡の住民が趙に降ったことから、上党をめぐって紀元前260年に白起と趙の名将廉頗とが激突する長平の戦いが起こります。秦軍が勝利しますが、このとき捕虜数十万人が生き埋めにされたといいます。
続けて秦軍は趙の首都、邯鄲を包囲しますが、魏の信陵君や楚の春申君の援軍を得た趙軍に敗北しました。
斉の孟嘗君、魏の信陵君、楚の春申君、趙の平原君の4人のことを戦国四君といいます。いずれもその国の王族で、数千人もの食客を養い、その名声は中華に轟いていました。
趙の都、邯鄲で、昭襄王の孫の子楚が人質として不自由な生活をしていました。子楚の父には20人以上もの子がおり、始祖が秦王となれる可能性はほとんどありませんでしたが、商人の呂不韋は「奇貨居くべし」と言って、これを援助しました。子楚はのちの荘襄王であり、始皇帝の父となる人物で、呂不韋は宰相に就任しました。このことから、珍しいものに投資すれば、のちに大きなリターンを得られる、という意味で奇貨居くべしと言われるようになりました。
紀元前247年、荘襄王が死に、政が13歳で秦王に即位します。のちの始皇帝です。
同じ年、魏の信陵君は、魏、趙、韓、楚、燕の5カ国合従連合軍を率いて秦と戦い、勝利します。秦の拡張を食い止めた信陵君の威名は大いに高まりました。
その6年後、今度は楚の春申君が五カ国合従連合軍を率いて秦を攻めますが、これは連合軍側の敗北となりました。
秦の統一戦争
そしていよいよ秦が中華の統一に向け、本格的に動き出します。紀元前236年、趙が燕の攻略にとりかかっている隙をつき、秦は趙に侵攻しました。攻め込まれた趙王は李牧を大将軍に任じます。李牧は秦軍を押し返すことに成功しました。
紀元前230年、戦国七雄のうち、韓が最初に滅亡します。
趙では秦軍の侵攻を数度にわたり撃退した李牧が趙王により誅殺され、その翌年の紀元前228年に趙は滅亡しました。
趙の滅亡により秦と国境を接することとなり、危機感をいだいた燕は秦王の暗殺を試みますが、失敗します。怒った秦王は燕を攻め、首都を陥落させました。燕王は遼東に逃げます。
刺客の荊軻が燕を出発するときに、友人たちと酒を酌み交わしながら死を覚悟して大いにん泣き、その有り様があたかも周りに誰もいないかのようだった、という故事から傍若無人という言葉が生まれました。
魏は秦軍の水攻めにあい、紀元前225年に秦に降伏し、滅亡します。
さらに、紀元前222年に楚と燕が滅ぼされます
そして紀元前221年、最後に残った斉が秦軍に占領されました。これにより戦国時代は幕をおろし、秦による統一王朝の時代が始まりました。