『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第1261〜1320段落
本ページで『カレンシー・レボリューション』 第1261〜1320段落を立ち読みいただくことができます。 本ページの前後の部分は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにて『カレンシー・レボリューション〜エコノミストたちの挑戦』をご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。 単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本の合計3本の作品が収録されています)。
|
リース=ロスは蒋介石との会見のために南京にいる。
雲ひとつなく晴れわたった日の夕刻、迎えにさし向けられたビュイックに乗って南京市の中心部から東に向かって走った。十分ほどで車は坂を登り始め、市街地の雑踏とは別世界というべき緑の深い紫金山(ズージンシャン)に分け入っていった。
蒋介石の官邸は、木々に覆われた紫金山の中腹に、俗世の煩わしさから逃れるかのようにひっそりと建っている。
車寄せにでむかえたボーイに案内されて玄関にはいり、正面の階段を上がると二十人ほどで会食ができるダイニング・ルームがあった。そこを抜けると広い南むきのバルコニーがあるのだが、案内のボーイはそこに主人がいないのをみて首を傾げた。
ボーイは紅く染まった西の空を見上げて、なにかに気づいて顎を三度縦に振った。
ボーイに導かれて再びダイニングを抜けて階段を上がる。階段を上がりながらボーイが「三階はご夫妻の寝室などがあるプライベートなフロアです」といった。
階段を上がると小さな礼拝堂があり、その脇を通って応接室にはいった。この応接室には、二階に比べればずっと小さい西むきのバルコニーがついている。
開け放たれたドアからバルコニーにでると、正面にモスグリーンの林に沈みゆくオレンジ色の太陽があり、リース=ロスは目を細めた。
バルコニーの奥には仲良く寄り添う男女のシルエットがあった。
蒋介石と宋美齢だろう。キッチンからひっぱりだしてきたような椅子を並べ夕陽のほうを向いて座っている。客の到着にも気づかずに、ただ夕陽を眺めている。
ボーイがリース=ロスの来訪を告げると、美齢のほうが先に立ち上がり、近づいてきた。蒋介石は遅れて振り返り、立ち上がった。
美齢は流暢な英語で到着に気づかなかったことを詫び、続けて蒋介石を紹介した。快活によくしゃべる女性である。南京へはどうやってきたかとか、上海での生活はどうかとか、そういうたぐいのことを矢継ぎ早に訊いてくる。その間、蒋介石は半歩下がった位置で軽く首を縦に揺らしながら微笑んでいる。
蒋介石が美齢に「そろそろなかにはいろう」と声を掛けたとき、夕陽はすでに地平線のしたに消えていた。
応接室のソファに移り、ようやく蒋介石との対話が始まった。通訳をするのは美齢である。よくしゃべり、主張が強く、ときに感情的になる彼女の通訳ではことばが偏りなく正確に伝わるか不安があったが、蒋介石は英語を話さないのでやむを得ない。
蒋介石との会見にあたって、宋子文は事前にいくつかの予備知識を与えてくれた。すなわち、蒋介石は金融問題にあまり興味がなく、兵と兵器のために得られる資金が多ければ多いほどいいと思っているだけで、その資金をどうやって得るかという点についてはほとんど関心がない。幣制改革関連で唯一といっていい興味は中国農民銀行による紙幣発行権のことである。蒋介石は自分および軍事委員会の強い影響下にある中国農民銀行が中央、中国、交通三銀行と並んで紙幣発行を認められるようになることを望んでおり、子文がそれに強く抵抗しているのだという。
リース=ロスは幣制改革の概要を説明し、予算を均衡させ、通貨供給を経済取引で必要とされる範囲内に抑制することが重要と説いた。幣制改革が失敗に帰するとすれば、それは蒋介石による軍備のための資金需要のせいだろう。蒋介石は金融問題に興味がないと聞かされてはいるが、これだけはしっかりといっておかねばならない。
蒋介石は同意のことばを口にしたが、その態度はそっけなく、いたずらを繰り返す子供が親の説教を聞き厭きて親の口を封じるために感情のない反省のことばを口にしたかのようだった。リース=ロスは単なる理想論を述べていると思われているような気がして、ハムレットの台詞を引用して、
「〈守るよりも破るほうが名誉なこととなる習慣〉と考えていただいては困ります」
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
といってみたが、蒋介石はそのことばに特段の反応も示さずに、政府がいかに資金を必要としているかを説いた。
この会談にあたって必ず訊かねばならないことがある。
「将軍は、カレンシー・リフォームを支持していただけますでしょうか」
短いが、重要な問いだ。蒋介石は幣制改革実行後におそらく軍需予算の拡張を迫る。しかし蒋介石が幣制改革を根本で支持しているのでれば、論を尽くせば説得することもできるだろう。
蒋介石の答えを美齢が代弁した。
「子文は私にいいました。カレンシー・リフォームにより民衆は苦しみを忘れ豊かになり、中国は列強の圧力を跳ね返すことのできる頑強な国になる、と。そのような政策を支持しないはずがありましょうか。いかなる困難があろうとも、私が改革を支えましょう」
期待したとおりのことばを聞くことができた。リース=ロスは満足し、外国借款の問題に話題を転じた。
幣制改革成功のために、いかに外国からの借款が必要であるかを述べ、続けて、
「鉄道の延伸など小規模かつ用途の限られたローンならば話は別ですが、中国経済全般に使用することができる大規模ローンとなれば日本の反対が必ずあり、組成することが難しい」
といった。そして、事前に子文より対日関係については触れるべきではないとアドバイスされていたのだが、外交問題に踏み込んだ。
「日本に対するなんらかのデマルシェ(外交的な対策)が必要かと思います。例えば関係改善の第一歩として、日本からの輸入関税を引き下げるといった措置を採ることはできないでしょうか」
蒋介石は口を開かない。リース=ロスは続けて、
「思うに、将軍は両手に常に二本の剣をもち、ふたりの敵と戦っているようにみえます。右手で日本と戦い、左手で共産党と戦っておられ、そのために危機に陥ってしまっている。どちらか一方とは和解すべきではないでしょうか」
美齢が通訳をためらっている。立ち入り過ぎだと思っているのだろう。
しかしリース=ロスは、目で訳を促した。
蒋介石は含み笑いを浮かべてから口を開いた。美齢が訳す。
「東方のジャッカルに比べれば、北方の熊のほうが好きではありません」
リース=ロスはそのことばの意味を捉えあぐねた。日本とは交渉できるといったようでもあるが、日本をジャッカルと表現したからには、日本は死肉を漁る交渉不能な獣だがソ連はそれ以下であり、ゆえに先に共産党を倒さねばならない、といったようにも思えた。ただ、ジャッカルと表現したのは美齢であって、おそらく蒋介石は別の動物に例えたはずだ。
「将軍は日本のことをどう思っておられるのですか」と、リース=ロスはまっすぐに訊いてみた。「宋子文は日本と全面戦争になるのは確実と思っているようですが、将軍のお考えはいかがでしょう」
「彼は一二八事変のときにはもうそう確信していました」
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
と蒋介石はいった。一二八事変とは、一九三二年の第一次上海事変のことである。子文を除く国民政府首脳は日本との妥協の道を探ろうとし、蒋介石はそれに同調したが、子文は強く反対し、財政部下の税警団(塩密売に対抗するための武装組織)を戦場に投入して抗戦した。
蒋介石は続けて、
「しかし私の軍は、現在のところ日本軍に匹敵することはできず、ゆえにこれまで日本との戦争を避けてきましたし、今後もそうしなければならないのです。ただ──」
蒋介石はことばを区切り、リース=ロスと美齢は彼の次のことばを待った。
「ただ、いったん戦争となれば、私は可能な限りを尽くして抵抗します。戦力で劣るわれわれは沿海部で早々に敗れるでしょう。しかし屈服することなく内陸に退きます。まずは武漢、そして重慶と長江を遡って抵抗を続けます。広い中国のいずれかの場所で戦い続けて、あなたの政府とアメリカの政府が助けにくる日までフリー・チャイナを維持し続けます」
リース=ロスは、
「私の政府に関する限り、ドイツとの戦争の脅威に晒されていることを忘れないでいただきたい。わが国が日本とも戦争状態になると期待すれば誤りをおかすことになります」
とことばを返し、さらに、
「もし上海が日本による攻撃に直面しているときに、同時に共産党が甘粛(ガンスー)で騒乱を引き起こしたならば、将軍はどうされますか。日本とは和解し兵を甘粛に送りますか。それとも、あなたの兵をふたつにわけて両者と戦いますか」
と、いじの悪い質問をした。蒋介石はその質問には答えず、
「イギリスとアメリカは日本と戦う中国を必ず助けにくる」
と、先のことばを繰り返した。
後世の者がみな知るように、この会見で蒋介石が予言のように述べたことばは現実のこととなる。リース=ロスは蒋介石の将来をみとおす力に感嘆し、のちに半生を振り返り記した回想録のなかで、「私が会った指導者たちのなかで将来の政策を完全に説明し、かつそれらをことごとく実現していった者はほかのどこにもいない」と記している。
また、同回想録でリース=ロスは、「私はこのインタビューで、彼の国の利益に対する誠実さと献身を感じた」と好意的に述べている。
ただ、この会見でリース=ロスがなした要請や忠告はほとんどなにも受け入れられることはなかった。
元の対ポンド、対ドル・レートは下落を続け、ついには目標範囲の下限である一元十四ペンスを一瞬ながらも下回るに至った。一ヶ月もしないうちに二十%以上の下落である。
昨日エドマンドは、杜月笙が為替取引でつくった損失の穴埋めを孔祥煕が決めたという話を聞き、耳を疑い、かつ呆れた。孔祥煕に会う機会があり次第、その愚を教え諭さねば気がすまない。
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |