『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第1681〜1740段落
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酒杯を手にした趙郁華(ジャオユーフア)がいった。
「私もおかしいと思っている。どうして一枚だけなんだ。それに、その一枚にしてもまだ手もとにないのだ。いやな予感がする」
晨光通詢社に対して取材許可証は一枚が発給されるとの通知があったが、実際に手渡されるのは六中全会当日の早朝だという。
燕克治は顎をさすり、
「確かに妙ではある。ただもし晨光通詢社の実態が露呈しているのだとすれば、官憲がすでにここに踏みこんでいるはずだ。明日取材許可証が発給されるのであれば、少なくともわれわれが暗殺をなそうとしていることはばれていない」
燕克治はそういいながら、小島譲次が絡んでいないだろうか、と考えた。彼が、晨光通詢社のことは伏せつつも、暗殺を試みようとするものがあることを政府に知らせたのかもしれない。普通なら日本人記者のいうことなど戯れごととされそうなものだが、小島は宋子文とつながりがあるようなので、そのことばは軽視されないかもしれない。
ただ、ここまできて計画を中止することはできない、と燕克治は思っている。明日は蒋介石に近づくことができる絶好の機会であり、五年の期限のうちに、これほどの機会は二度と訪れないだろう。
燕克治は杯に残った酒をのどに流しこんでから、
「単に警備を強化しただけだろう。明日取材許可証がもらえる限り、なんら気にすることはない」
「そうだろうか──」趙郁華は手にもった酒杯を卓に戻していった。「取材許可証があれば会場にははいることができる。ただ例えば、蒋介石が現れなかったらどうする。警備が強化されたのは、当局が不確かながらも暗殺の可能性があるという情報を得たためなのかもしれない。となれば臆病者の蒋介石のことだ。自分だけ奥に隠れて記者の前に姿を現さないということもあるのではないか」
「その場合は中止だ」
と、燕克治ははっきりといった。
「な、なんだと」
と、孫鳳鳴がキツネのような鋭い目で怒鳴った。店にほかの客はいないが、大声をだせば奥の厨房に聞こえてしまう。燕克治は手のひらをしたにむけ、「大声をだすな」と無言でいった。
孫鳳鳴は声をおとしたが、犬が唸るように
「会場にはいっておきながら、やめることなどできるか」
といった。趙郁華が継いで、
「開会の挨拶をする汪精衛は確実にでてくる。蒋介石がいなければ汪精衛をやればいい」
「だめだ。われわれの狙いは蒋介石、ただひとりだ」
「しかし依頼主にしてみれば、蒋介石個人に恨みがあるというのではなく、蒋介石の政治姿勢を憎んでいるのだろう。ならば、もともとは蒋介石の政策を批判していたにも関わらず、いまは同調し、蒋介石とともに政府の両輪となっている汪精衛も消したいと思っているに違いない。依頼主の指示のとおりとはならなくても、汪精衛をやれば、これまでに提供された資金の分の仕事をしたことになるのではないか。うまくすれば、資金援助が今後も続くことになるかもしれない」
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蔡琪琳がかん高い声で、
「だめよ。殺すのは蒋介石よ。蒋介石がでてこなければ中止すべきだわ」
といったが、夫の命を守るためにいっているとしか聞こえない。趙郁華は、蔡琪琳に構わずに、燕克治に詰め寄った。
「蒋介石がでてこなければ汪精衛をやるべきだ。汪精衛がだめなら孔祥煕でも張学良でもいい。おまえにとっての敵は蒋介石個人かもしれないが、真の敵は安内を攘外に優先させる政策なのだ。依頼主にとっても共産党にとっても──」
燕克治は趙郁華のことばが終わる前に訊き返した。
「共産党?なぜここで共産党がでてくる」
以前、上海にいる同志で共産党員の沈旺士(シェンワンシー)が共産党の下部組織に援助を依頼したが断られ、それ以降共産党と連絡はとっていないはずだ。
「あ、いや、共産党は関係ない──」
と、趙郁華の歯切れは悪い。
「共産党から援助を受けたのか。だから汪精衛を殺害するといっているのか」
趙郁華が答えないので、燕克治は朱偉に向かって
「どうなんだ」
と訊いた。しかし朱偉も黙っている。
燕克治はそれ以上追求しようとしなかった。共産党の資金がはいったからといって蒋介石暗殺に優先して汪兆銘を倒そうとすることはないはずだ。一部の者が仲間に知らせずに依頼主からの資金を懐にいれているとなれば腹立たしいが、大事な日の前に仲間割れすることは避けねばならない。
ただ、固い結束があったはずのこのメンバーのあいだにほころびが生じたのは確かだった。
このほころびが悪い結果につながらなければいいが、と燕克治は思っていた。
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一九三五年十一月一日。
国民党第四期中央執行委員会第六回大会が開催された。
百人を超える中央執行委員たちは早朝より中山陵を詣でて、そのあと国民党中央党部(現湖南路十号)にはいった。
朝九時に開会式が始まった。聯盟通信社の小島譲次はカメラマンの高橋恵五とともに中央党部会議場玄関前の広場で開会式が終わるのを待っている。開会式終了後にここで中央執行委員たちの記念撮影がおこなわれる予定なのだ。
会議場のなかから汪兆銘行政院長の演説が漏れ聞こえてくる。内容まではよく聞きとれないが、強弱を巧みにつけた名調子で、ときおり共鳴した聴衆の拍手が湧き起こる。汪兆銘は人を惹きつける天賦の才をもつ政治家だ。
高橋がカメラのセッティングをしながら、
「カメラが無事でやれやれですよ。どこかへ消えてなくなるか、さもなくば壊されるのではないかとひやひやしましたからね」
といった。中央党部の敷地に入場する記者に対して所持品検査がなされ、カメラは検査のために一時預けるよう求められたのだ。
「今回ほど警備が厳重なことも珍しいな」
「結局中山陵詣での取材は許されませんでしたしね。中山陵へ同行できたのは国民政府に近いごく一部の新聞だけだったようですよ」
小島たちの取材許可証はいまからほんの一時間ほど前に発給された。そのころ中央執行委員たちはすでに中山陵からの下山の途にあった。
「うちはまだいいほうだよ。取材許可証を二枚もらえたからな。ほとんどのところは一枚だけだ。過去に共産主義を擁護する記事を掲載したことがある新聞や雑誌は取材許可がおりなかったようだ」
「そうなのですか。しかしどうして突然厳しくなったんです。理由があるんですか」
「情報があったんじゃないか」
「情報?なんです、情報って」
「今日ここで暗殺がおこなわれるという情報だよ」
「え、え、え。そうなのですか。いや、いや、いや。物騒だな、こりゃ」と、高橋は目をみひらいて驚き、「暗殺って、いったい誰が狙われるんですか」
「そりゃあ蒋介石だろう。彼の独裁的なやりかたに不満をもっている輩は多いからな。彼の日本に宥和的な姿勢に反対する奴らが暗殺を試みるのかもしれない」
「対日宥和政策に反対する者が暗殺者なら、汪兆銘が狙われるのではないですか」
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