『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第1981〜2040段落
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と、ことばを濁した。そして再び森尾を指さし、
「銀拠出やその他の問題について、この男にいろいろ考えがあるようなので、別途議論をされてはいかがでしょう」
といった。森尾が継いで、
「改革前にいちどミスター・エドマンド・ホール=パッチとお会いし諸々話をしましたが、もう一度お会いして議論を交わしたいと思っておりました。近くお誘いしたいと思います」
と、流暢な英語でいった。
会談は二時間半におよんだ。
リース=ロスは、これまで日本の外交官や金融機関と話をしても、改革に賛成なのか反対なのかもわからないような煮え切らない態度ばかりをみせられ嫌気がさしていた。しかし今日の会談で磯谷は断片的ながらも本音を明かした。リース=ロスは磯谷に好感をもち、磯谷も同様だったようで、ふたりの交流はこののちも続くことになる。
その様子は初回の会談の仲介をした松本重治の回想録に詳しく記されている。
三月初には磯谷がスーツ姿で補佐官を帯同せずにキャセイ・ホテルにリース=ロスを訪ねた。そしてこのときも二時間余にわたって意見の交換がなされた。
三月下旬、磯谷が陸軍軍務局長に就くため帰国することとなり、それを新聞で知ったリース=ロスはキャセイ・ホテルの特別室、ジャコビアン・ルームで送別のカクテル・パーティーを開いた。リース=ロスは第二回目の会談で磯谷がカクテルにあまり手をださなかったことを覚えていて、日本酒を用意した。ふたりは乾杯を重ね、一層親交を深めた。
ふたりの交流はさらに続き、リース=ロスは帰国直前に訪れた東京で磯谷に会うべく陸軍省に訪問を申し入れる。しかしキャセイ・ホテルでの送別の会の答礼をなさねばならないと考えた磯谷は、自分のほうからイギリス大使館を訪ねリース=ロスと会談した。そしてその数日後、東京出立の前にこんどはリース=ロスが磯谷を陸軍省に訪問し、その夜、磯谷は赤坂の料亭でリース=ロス送迎の宴を張った。
リース=ロスは二月末に日本を訪れようと計画していたが、まさに出発しようとしていたとき、上海の大使館経由で二・二六事件の勃発を聞かされ、断念した。以前からの知人であり、最初の日本訪問時にも意見の交換をした高橋是清の死はリース=ロスの骨身にこたえたようである。
中国を離れる前にいまいちど日本を訪問しておかねばならないと考えるリース=ロスは、帰国の途につく直前の五月三十一日に日本に向かった。
エドマンドも、八ヶ月前に上海にくるときにも乗船した〝長崎丸〟に乗った。
八ヶ月前とは違って心にも時間にも余裕がある一行は京都で数日を過ごし、神社仏閣をめぐり、いくつかの景勝地を訪れた。
そして〝燕号〟に乗って東京に向かった。
名古屋を過ぎ、午後六時過ぎに着いた静岡駅で列車に乗りこんできた者があった。
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
森尾陸軍三等主計正である。森尾は磯谷帰任より前に帰朝している。
森尾はリース=ロスのコンパートメントの入り口に立ち、エドマンドに、
「帰国の挨拶もできずに上海を離れてしまったのでなんとも気掛かりで、きみらが帰国前に東京にくると聞いて、いてもたってもいられずここまで迎えにきた」
と小声でいった。リース=ロスたちが眠っているのをみて、起こさぬように気を使ったのだ。
エドマンドは嬉しそうに頬笑んで森尾の手を握った。そしてポークパイ・ハットを頭に載せ森尾を誘い、ソファの並ぶラウンジをぬけて展望デッキに立った。
列車の後方に向かって立つふたりの右手の西の空がオレンジ色に染まり始めている。左には駿河湾がひろがり、太陽を背にしてみる海と空が藍色に鈍く輝いている。頬に風を感じながら右から左へと視線をめぐらしてみると、全ての色がグラデーションになっており、ちょうど光と闇の世界の狭間に立っていて、どちらに進むかを決断するよう、なにものかに迫られているような感覚がした。
エドマンドは風で飛ばされないように帽子を手で抑えながら、光量を弱めた紅い太陽をみつめる森尾にいった。
「リース=ロス卿が初めて磯谷武官に会ったとき、きみは僕に会って議論を交わしたいといったそうじゃないか。きみからの連絡を待っていたが、ついに連絡はなかった」
「あのあとまもなく帰任辞令がでてしまってね。一度キャセイ・ホテルにきみを尋ねていったのだが、きみはちょうどそのとき寧波(ニンポー)に仕事でいっていて不在だったのだ。それで結局挨拶もできずに帰国することになってしまった。無礼を許してもらえないだろうか」
「寧波は仕事ではないよ。上海のイギリス人の友人の普陀山(プートオシャン)にあるレストハウスに遊びにいっていたのだ。こちらこそ失礼したね。すまなかった」
「普陀山はどうだった」
「すばらしかったよ。桃の花に覆われた丘も、断崖から流れでる清流も。小川で仔牛を洗う少女に声を掛けたら家に招かれてね。家のなかはきれいで、西洋のものは魔法瓶以外になにもなかった。なんともうまいお茶をふるまってくれたんだが、喉の乾いていた僕が一気に飲み干すと、もっと味わって飲めと叱られた」
「そうか。そんなロマンスもあったんだな」
と、森尾が冷やかすように笑った。
「とんでもない。リース=ロス卿や友人がいたし、あちらも十八人家族だよ。それにわれわれは誰も中国語が話せないし、向こうも英語を全く話せなかった」
エドマンドは「ああ、そうだ。ちょっと待っていてくれたまえ」といって、ひとりコンパートメントにいった。そしてテーブル上のボトルの赤ワインをグラス二杯に注ぎ、展望デッキに戻った。
グラスのうちのひとつを森尾に手渡しながら、
「夕陽をみていたら飲みたくなってね。この黄褐色。ぴったりだろう」
エドマンドはグラスを西の空にかざした。そして少量を口に含み、味わってからいった。
「さて、ぼくらの勝負の話をしよう」
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「勝負?」
「ゴルフ場のクラブハウスで、きみとはこれから通貨をめぐって長い勝負をすることになるといっただろう」
「ああ、そうだった」
森尾もエドマンドがしたのと同じようにグラスを太陽に向かってかざした。
「きみのもくろみどおり、カレンシー・リフォームは半煮えの状態でリリースすることとなった。そこまではきみの勝ちだ。しかしきみの思惑とは異なり、カレンシー・リフォーム実行後、リーガル・テンダーは安定し、目立ったインフレーションも起きていない。中国経済は極めて順調に回復している。どうかな、負けを認めてもらえるかな」
「そうだね。確かに僕が思っていた以上にカレンシー・リフォームはうまくいっている。正直にいえば、想像を大きく上回る成果に驚いている」
それを聞きエドマンドは満足げにグラスを傾けた。
「汪兆銘暗殺未遂のタイミングが偶然とは思えないのだが」
と、森尾がぼそりといった。エドマンドは風の音のために聞きのがし、
「なんといった?」
と訊き返した。
「汪兆銘暗殺未遂という突発事故があり、その直後にカレンシー・リフォームが実行された。そして、それが実にうまくいっているとなると、カレンシー・リフォームをおこなうために汪兆銘暗殺がなされたのではないかと疑ってみたくなる」
「まさか、そんなことがあるはずはなかろう」
といったが、エドマンドのなかにもあの事件についてはなにか違和感のようなものがある。
森尾がいった。
「宋子文あたりは、元下落が続いて追いこまれて改革を強いられるのではなく、大事件が発生して緊急の事態に対処したという形のほうが、政府と新通貨に対する信認が負う傷は浅くて済み、混乱は小さくなると考えていたということはないか」
「おいおい。きみは宋子文が暗殺の黒幕だというのか。そんなことがあるはずがなかろう」
「宋子文や孔祥煕が暗殺を首謀したということはなくても、蒋介石ならどうだ」
「蒋介石は金融問題に関与しない。ゆえにそれもない」
エドマンドはそう否定しつつも考えた。宋子文が事件発生二日前のミーティングで「大きな事件があれば即座にカレンシー・リフォームを実行しようと思う」といったとき、なんらかの事件発生を待っていたということは考えられなくもない。その翌日に孔祥煕とヤングから状況を説明された蒋介石が、言外にある宋子文の考えを汲みとって事件を起こしたということは、はたしてあり得るだろうか。
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