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『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第301〜360段落

本ページで『カレンシー・レボリューション』 第301〜360段落を立ち読みいただくことができます。

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「サー。今朝はずいぶんとご機嫌がよろしいようですね」

「ああ。ようやく連絡がきたのだよ」

「連絡?」

「天皇謁見の件だよ。松平子爵が知らせてくれた。今日の十一時の謁見だそうだ」

 松平子爵とは旧福井藩主松平慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく))の三男、松平慶民(よしたみ)式部長官のことである。リース=ロスとはオックスフォードの同窓であることから親しく、一行の東京到着後の世話役のようになっている。

「今日の午前中の謁見ですか。なんとも急な話ですね」

「子爵は実に嬉しそうだったよ」

 そういったリース=ロスこそ満面の笑みだ。

「もはや謁見はかなわぬものと思っていました」

「子爵によれば、これは相当に異例なことのようだ」

 リース=ロスはイギリス国王から天皇に宛てた親書を携えており、それを直接奉呈したいと申しでていた。その親書の力により謁見がかなえられたのである。

 リース=ロスは笑顔で続けて、

「思ったとおりだ。もともと親書を起草したのは私なのだがね。一度王の手に触れただけで、一枚の紙切れが日本政府や強大な力をもつ軍をも飛び越える力を得た」

 リース=ロスは、学生時代に古典研鑽に集中したこともあって重要文書の組み立てにおける伝統的な法則に精通しており、以前、首相秘書官を務めたときには国王の国会開会式でのスピーチ起草を任されていた。このときに国王の信頼を得て、のちに高官となってからも、しばしば詔勅の起草をもちこまれた。天皇への親書直接奉呈という発想はリース=ロスによるものだが、その背景にはこうした彼と王との関係があった。

「やれやれ。これでようやくこの重苦しい日々から解放されるのですね。親書をもったままでは日本から離れるわけにはいきませんから」

「確かに重苦しい日々だ」リース=ロスは笑顔を苦笑に変えていった。「まともに話もしたがらない連中ばかりだからな。いま思えば、われわれの案への反対の意思を隠さなかった広田外相には誠意があったと思えるよ」

「誠意ですか」

 エドマンドも苦笑した。

「子爵によれば、広田は、私との会見後すぐに謁見の申請書を宮内省に転達して、さらにその四日後に、謁見を認めるようにと嘆願する広田名義の書簡を宮内省宛てに発出したのだそうだ。広田には感謝しなくてはならない」

「イギリス国王の親書を携えている者を、いつまでも待たせるわけにはいかないという外交儀礼上の判断でしょう」

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「天皇謁見が実現することによって状況が変わるような気がするよ」

「それはどうでしょうか。天皇は政治に関与しませんから」

「いや。天皇からいいことばを賜ったうえで要人との会見に臨めば事態は好転するかもしれないぞ。今日の午後は重光外務次官との会見だ。広田との会見のときに話した感じでは、重光は穏健かつ合理的であり、かつ知的な人物であるように思えた。前向きな話ができるような気がする」

 リース=ロスは苦笑を濁りのない笑顔に戻してそういった。

 リース=ロスの天皇謁見は一九三五年九月十七日である。クライブ大使が随行した。

 事前にクライブ大使に教えられたとおり、リース=ロスは天皇の前で二ヤードの距離をおき、背筋をのばしたままで三度頭と肩を前へ倒した。

 天皇は親書を受け取り、それを読むことなく、リース=ロスに国王ジョージ五世の健康を訪ねた。

 それがこの謁見のほとんど全てだった。むろん外交に話がおよぶことはなく、ミッションの目的すらも尋ねられることはなかった。

 天皇は大使とも挨拶程度の短い会話をし、それで謁見は終了した。

 リース=ロスがこの謁見で得たのは、皇居の長い廊下には意外なほどに装飾がなされていないということと、天皇がときおり詰まりながらもきれいな英語を話すということを知ったことだけだった。

 重光葵外務次官との会見は次官公邸でおこなわれた。イギリス側はクライブ大使とエドマンドが、日本側は津田順一大蔵次官が同席した。

 会見は、これまでの会見とは異なり通訳ははいらず、英語のみでおこなわれた。

 会見は雑談から始まった。前回の広田外相との会見のあとにリース=ロスたちがみた東京の姿や食べたもの、そして、どうにも蒸し暑くてしようがない気候の話などである。

 雑談が続き、エドマンドが、はやく本題にはいれ、と思っていらつき始めたころ、応接室のドアがひらき、男がひとりはいってきた。男は挨拶のことばも会釈もなく、静かに重光の座るソファのうしろの折りたたみ式の椅子に腰を掛けた。

 リース=ロスがようやく「さて、中国のことですが──」と話題を転じた。

 リース=ロスはいきなり満洲国を通じた資金供与スキームについて話し、重光の意見を求めた。

 エドマンドは驚き、リース=ロスの横顔をみた。これまでの日本の要人たちとの会見で満洲国問題がいかにセンシティブであるかを実感し、そのような問題は会見の最後に切りだすものと思っていた。

 重光は、「まったく自分一個の考えですが──」と前置きをした。そのことばは、他の日本政府関係者とは違う内容を話すという合図にように聞こえた。

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 が、重光の口から続けてでたことばは一週間前に広田外相から聞いたものと大差はなかった。

「日本と中国との関係はこのところ安定の一途にありますので貴国にご心配いただくまでもありません。満洲国問題は日本と中国との直接交渉によればよく、第三国の介入は問題をいたずらに複雑にするだけです。蒋介石らは満洲国は承認するほかないと考えています。いまはタイミングを見計らっているだけで、実質的に承認しているも同然なのです。当方には積極的に承認を獲得する必要はないのであって、中国からの歩み寄りを待てばいいのです」

 重光はそういって、「ブオッ、ブオッ、ブオッ」と濁った声で笑った。

 広田外相が述べたことばをまるまる写したかのようである。これが政府の公式見解なのだろう。「自分一個の考え」と前置きをする意味がいったいどこにあったのか。

 エドマンドは重光のうしろに座る男に目をやった。男の膝のうえには数十枚のペーパーが置かれている。そこに重光が話すべき内容が書かれているのだろう。男は頭を垂れてペーパーを凝視している。重光がペーパーの内容と異なることをしゃべらないか、一言一句確認しているかのようにもみえる。

 リース=ロスが、

「満洲国を絡めないにしても、とにかく中国に対する資金支援がなされなければなりません。それも早急に。日本の意向に配慮するというのがわが国の方針ですが、では日本としてはどのような形での対中支援が考えられるのでしょうか」

と問うと、重光は、

「資金の使途が問題です。いまの状態の中国に資金を供与すれば必ず軍事に費やされてしまいます。わが国の国民を殺すための飛行機や戦車購入のための資金をわが国が支出するようなものです」

と否定的に答えた。

「使途を経済関係に限ることとし、資金のゆき先を厳しく監視すればいいではないですか」

「監視を有効適切におこなえるのか、はなはだ疑問です」

 これも広田外相との会見でなされた会話とほぼ同じだ。聞きながらエドマンドは、やれやれ、と顎を横に小さく振った。

 リース=ロスが話題を幣制改革に移した。改革案の概略説明については広田外相との会見時と重複するので省略しようとすると、重光のうしろの男が初めて口を開き、

「いえ、ぜひお聞かせいただけませんか」

といった。リース=ロスが重光の顔をみると、重光は小さくうなずいた。

 エドマンドが幣制改革の概要説明をおこなった。ときおり重光のうしろの男をみると、メモをとりつつ熱心に耳を傾けている。

 エドマンドの説明が終わると、男が質問をし始めた。銀本位制を離脱する場合、為替レートをどの水準に設定するのかとか、すでに発行されている銀行券の回収をいかにおこなうのかといった質問で、エドマンドの頭に案はあるが、リース=ロスとの会話でも話題になっていない具体的な内容である。

 エドマンドは「私案ですが」と断ったうえで、逐一ていねいに答えた。

 男の質問とエドマンドの回答が続く。男は未だ名も名乗っていないが、エドマンドはリズムのいい会話を楽しんでいる自分を感じた。

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