『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第421〜480段落
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昨年末に開通したばかりの丹那トンネルをぬけ、沼津には定刻の十一時に着いた。
記者はなんどもなんども腰を折り、頭を下げてから、沼津駅で下車した。
沼津をでると、右手に富士の姿があった。東京湾でみた富士よりずっと大きい。
エドマンドは、いっそう威圧的にみえる富士の広い裾野をみながら、リース=ロスが記者に対していったことばを思いだしていた。
どうしてリース=ロスは「イギリス製のビールをもっと売る」といったのか。それではイギリスが自国の輸出をのばすためだけに中国の経済改革をなそうとしているかのようではないか。せめて「イギリス製の安くてうまいビールをもっと売る」というべきだったのではないか。そのほうが、イギリスと中国両方の国の利益となる経済改革を目指しているということが表現されたのではないだろうか。
深く考えるほどのことではないのかもしれない。ただ、リース=ロスと自分とでは、このミッションの目的についての考え方に小さくないずれがあるのかもしれないとも思えた。
フレデリック・リース=ロス一行は神戸と長崎でそれぞれ一泊し、一九三五年九月二十日、長崎を発って上海に向かった。
長崎―上海航路は〝日支連絡船〟とも呼ばれる日中間をつなぐ最重要幹線であり、日本郵船が二隻の五千トン級船、〝上海丸〟と〝長崎丸〟を四日に一度のスケジュールで運航している。距離でいえば長崎は東京よりも上海に近い。長崎を正午過ぎに出航した船は翌日夕刻に上海日本総領事館のすぐ前の郵船桟橋に横づけされる。
エドマンド・ホール=パッチは、特等室のリビング・ルームでリース=ロスの寝酒の相手をさせられている。本来その役目を担うべきリース=ロス夫人は瀬戸内海を抜ける船上で島々の美しさにはしゃぎ過ぎてしまい、まだ九時前だというのにベッド・ルームで寝息をたてている。
エドマンドは、ロンドンをでてから一か月以上にわたって朝から晩まで顔を突き合わせ、東京にはいって以降は不機嫌な顔が続いている上司と狭い部屋にふたりだけでいることに窒息しそうな息苦しさを感じた。シガー・ルームへ移ってはと提案してみたが、リース=ロスは「疲れている」といって動かなかった。
シガーを勧めながらリース=ロスが訊いた。
「では明日は、上海の港についてから南京への夜行列車に乗るまでのあいだにミーティングをおこなうということか。夕食の時間はとれるだろうか」
「宋子文は、われわれが到着次第、港のそばのホテルでミーティングをおこない、そののちにディナーに移動したいとのことです。もし到着が遅延すれば食事をしながらのうちあわせとなります」
「慌ただしいな。宋子文と話すのは南京から戻ったあとでもいいのではないか」
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
「先方の強い希望です。空き時間はあるのですから断るわけにはいきますまい」
「やれやれ。日本では時間をもてあましたが、中国では逆にずいぶんと忙しそうだな」
リース=ロスは自分もシガーをくわえ、火を点けた。
「望むところではないですか。これからが本番です」
「嬉しそうだな」
「当然です。やっと仕事ができるのです。成果なくただ待つことには厭きました」
「確かにそうだ。私もきみのように前向きに考えなくてはならないね」リース=ロスは小さく笑い、「ところで宋子文だが、彼は中国政府において、いったいどういう位置づけなんだ。財政部長を辞めてもう二年になる。プライム・ミニスターを務めたことはないから文官の位階を極めたというわけでもなさそうだ。中国では年長者を無条件で敬うそうだが、宋子文は長老というわけでもない」
「長老どころか、彼は私と同世代ですよ。まだ四十になるかならないかというところのはずです」
「ただの民間銀行のトップなのに、中国経済関係で耳にするのはこの男の名ばかりだ。蒋介石の親族だそうだが、それが理由で経済界で大きな力を有しているのか」
「彼の妹の美齢※が蒋介石の妻です。それも彼の力の理由のひとつでしょうけれども、実績が大きいようです。ハーバードで経済学修士、コロンビアで経済学博士を取得し、帰国後、姉で孫文夫人の慶齢※の推薦で孫文の革命に参加して、広州の革命政府の財政の長官とセントラル・バンクの総裁に加えて広東省の商務の長官にも就いています。複数の要職を兼務して通貨制度や塩流通税の整備などをおこない、短期間のうちに財政を建てなおして、孫文の革命を経済面で強力にサポートしたようです」
リース=ロスはエドマンドの話の途中で視線を壁のほうに移した。そこにある小さく丸い舷窓は月明かりを受けて青く光っている。
リース=ロスは窓をみたままで、
「そのころはまだ地方政権だったのだろう。政府の規模が小さかったから成功したんじゃないのか。この男が最近やっていることはカネ集めばかりのようにみえるぞ。それも、あまりうまくいっていないようじゃないか。中国経済の苦境をしきりに訴えているが、なんとかしてくれと叫ぶばかりで、自分ではなんの努力もしていないようにみえる」
「どうでしょうか。僕には、なんの努力もしていないのではなくて、国を豊かにしようともがき苦しんでいるようにみえますが。国際会議の席でなんどか会う機会があり、ことばを交わしましたが、かなり頭の回転が速い男であるという印象をもっています」
「よくない評判もある。権限を利用して私財を蓄積しているという噂を聞いたぞ。まあ、中国では権限を利用して儲けようとしない者は愚かだと考えられるそうだから、中国ではあたりまえのことなのかもしれないがね」
「現財政部長の孔祥煕※については諸々悪い噂を聞いています。しかし宋子文についてはどうでしょう。現財政部長がそうならば前財政部長もそうに違いないという類推に過ぎないのかもしれません」
「まあ、そうかもしれんが、煙のあるところにこそ火があるようにも思うがね」
リース=ロスはシガーを深く吸い、肺を満たした煙を、ため息とともにゆっくりと吹きだした。
天井にのぼっていく煙は窓から射しこむ月光に照らされて、ほのかに輝いた。
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翌日、エドマンドは日本入港のときと同じように、早朝にキャビンをでてデッキに立った。
船は白い半円を描きながら旋回し、海のように広い長江から黄浦江(フアンプージアン)へとはいっていく。
(隣の国でもずいぶんと違うものだな)
と、エドマンドは思った。右前方にみえる砲台のある丘を除けば、みわたす限りの平らな大地だ。富士をみたときには怖さのようなものを感じたが、ここで感じるのはおおらかさだ。頭のうえを鳥の一群が長江から陸に向かって飛んでいく。その姿を目で追っていると、なにやら鳥たちに誘(いざな)われているような感じがした。
船は蛇行する黄浦江をゆっくりと遡り、正午過ぎに上海虹口(ホンコウ)の郵船桟橋に着いた。
一行は、アレクサンダー・カドガン※大使とトニー・ジョージ商務参事官および三十人ほどの中国政府職員に迎えられた。
リース=ロスは桟橋を歩きながらエドマンドに
「迎えがずいぶん多いな。今回の調査に関係がない者も混じっているんじゃないのか」
と、小声でいった。
「迎えの人数を揃えることが最高のもてなしと考えているのでしょう。日本での歓迎との違いがよくわかるじゃないですか」
エドマンドはそういいながら、黄浦江に面してずらりと建ち並ぶ荘厳な摩天楼群をみた。その姿は両手を広げて来訪者を迎え入れているかのようにみえる。
ちなみに、エドマンドはこのミッション終了後もイギリス財務官として上海に残る。そして日本の真珠湾攻撃のときまで六年強にわたって上海の地にあり、通貨戦をしかける日本と防戦する中華民国との間で奔走することになる。
その第一歩をいま踏みしめたのだった。
一行は財政部の用意した車で郵船桟橋から歩けるほどの距離のサッスーン・ハウス(現和平飯店北楼)に向かった。ピラミッド型の屋根が特徴的なサッスーン・ハウスに入居する名門ホテル、キャセイ・ホテルがこれから数ヶ月間の住居となり、事務所となる。
一行はいったん部屋にはいったものの、ポーターに預けたバッグが届けられるよりも先に部屋をでて、キャセイ・ホテル内の会議室に向かい、宋子文との会見に臨んだ。
出席したのは、イギリス側はリース=ロスとカドガン大使、エドマンド、イングランド銀行のシリル・ロジャース。中国側は宋子文のほか財政部から数名である。
リース=ロスがまず、
「中国には遅かれ早かれカレンシー・リフォームが必要となると考えていますが、いかがお考えでしょうか」
と、基本的な考え方を問おうとすると、子文は、
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