『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第541〜600段落
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ヤングは一九二九年にアメリカからの金融顧問団の一員として中国にきて、任期満了とともに帰国せずに、アメリカ国務省を退職して国民政府の経済顧問となった。年齢はエドマンドより五歳上だ。
エドマンドは会見のあいだ、新味のある話をいっこうにしない孔祥煕にいらついていた。おそらく孔祥煕は宋子文やヤングが練った案に対して忠実に従っているだけなのだ。
リース=ロスが幣制改革の技術的なことがらに話を進めようとすると、孔祥煕は「そういう話は宋子文のいる場でないとできない」といって、まじめに聞こうとはしなかった。
孔祥煕は中途で退席し、部屋にはリース=ロスとエドマンド、ロジャース、ヤングの四人が残った。
今朝、ヤングは孔祥煕とともに南京駅にきてリース=ロス一行を迎えたが、そのときからずっとなにやら嬉しそうである。リース=ロスとエドマンド、ヤングの三人は、一九二〇年代にパリでおこなわれたドイツの賠償問題に関する国際会議や、その後におこなわれた英米間の金融交渉においてともに働いたことがある。エドマンドは南京駅でヤングの顔をみたとき、戦場のさなかで懐かしい友人に会ったような和らいだ気分になったが、おそらくヤングも同じだったのだろう。
昔の思い出話をしばらく交わしたあと、ヤングは中国の経済事情と金融制度を概説し、続けて、一昨日に宋子文と孔祥煕に提出したばかりという幣制改革案を説明した。数年をかけて練りあげたという改革案はかなり詳細にわたるものだった。
翌日、カドガン大使に伴われて、汪兆銘※行政院長注との会見に臨んだ。
過去には国民党左派の代表として蒋介石らの右派と対立し、のちには日本の傀儡政府の中心人物となって蒋介石と袂を分かつことになる汪兆銘だが、この時期は蜜月状態であり、蒋介石は軍事、汪兆銘は内政や外交を担うという役割分担ができていた。
現れた汪兆銘は、東洋人にありがちの短躯ではなく、胸板のあつい精悍な男だった。それでいて顔の輪郭はふくよかで、両目尻のさがったまなざしはやさしげであり、人を惹きつける容姿の持ち主といってよかった。ただ声に力は感じられず、笑顔はさみしげでもあった。ときおり咳きこむ姿には明らかな疲労の色が感じられた。
金融や財政問題を孔祥煕や宋子文に任せている汪兆銘と幣制改革の具体策について論じる必要はなく、話題はおのずと借款の問題が中心となった。
「ローンを得るためには三つの条件を満たさなくてはなりません」リース=ロスは指を三本立てた。「第一に、国民政府が経済改革案を受け入れ、かつその完全な履行を確約することです。第二に、過去の債務支払い遅延問題を解決することです。遅延している債務の返済をおこなうか、リスケジュールをしなければなりません。そして第三に、各国と幅広く協調することです」
第三の条件は「日本抜きでイギリスはローンを実施することはできない」ということを意味している。エドマンドは汪兆銘の顔色を窺ったが、汪兆銘は不快感を示すことなく首を縦に振った。
それをみたリース=ロスは、満洲国承認を絡めた借款スキームを切りだした。
カドガン大使は驚いている。イギリス外務省はもともと満洲国を実質的に承認することになるこのスキームに反対であり、日本での交渉の推移をみて胸をなでおろしていた。にもかかわらずリース=ロスが話を持ちだしたので、カドガン大使は明らかに顔を強張らせ、リース=ロスの横顔を睨みつけた。ただ、話を中断させることまではせず、リース=ロスはスキームを最後まで話した。
リース=ロスは親日派とされる汪兆銘ならばスキームに賛意を示すかもしれないと考えている。
話を聞き終えた汪兆銘は眉間に皺をつくり、いった。
「わが国からこのような提案をしても、日本側が不当に条件を吊り上げたり約束を守らなかったりして、当初の期待どおりの結果を得られることはないと思います。日本政府の高官のなかにも正しい考えをできる人物がいるのは確かです。しかし彼らが、みずからが正しいと考える政策を実施する力を有しているかといえば、それは大変疑わしい」
「過去の中日関係を考えれば日本に対して強い不信感を抱かれるのは無理のないことです。しかしこの案は、わが国も含めた三国間のスキームです。中日二国間交渉の場合と比べれば、日本が不当な条件吊り上げや約束不履行をなす恐れはずっと少ないでしょう」
汪兆銘は首を横に振った。
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「仮に経済的には利益が得られるとしても、実質的に国土を売ることとなります。政府は国内外からモラルを問われることとなります。中国国民はリットン調査団注の報告を受け入れ、それを中国東北部における基本政策と考えています。そこから逸脱することは、国内の政情を大いに不穏にし、新たな革命を引き起こしかねない」
リース=ロスは引き下がらず、
「閣下は〝一面抵抗、一面交渉〟という方針を掲げておられます。対話の重要性を訴えておられる。それなのに対日強硬派の声を恐れて交渉もおこなわないというのは、一面抵抗、一面交渉の方針と矛盾するのではないでしょうか」
この〝一面抵抗、一面交渉〟とは、日本に対して抵抗を続ける一方で交渉も継続するという考え方で、汪兆銘の主張の神髄であり、蒋介石もこれに同調し、現在の国民政府の基本政策にもなっている。
リース=ロスは続けて、
「相手を拒絶するだけでは中国と日本のあいだに横たわる問題を解決することは永遠にできないではありませんか」
と、口調を強くしていった。
そこに、カドガン大使が割ってはいった。
「時間も限られていますから本件に関しては後日さらに検討することとしましょう」
汪兆銘が、
「そうですね。われわれがなすべき幣制改革についてのお話も伺いたいですし」
と、カドガン大使に同意すると、リース=ロスも話題を転じざるを得なかった。
南京から上海に戻ってすぐの九月二十五日朝、エドマンドはキャセイ・ホテルの部屋の窓から眼下の景色を眺めていた。
目の前には黄浦江が流れ、積荷を満載し、沈みそうなくらいに喫水線を上げた小舟が何艘も忙しそうにゆき交っている。その手前の外灘(バンド)と呼ばれるエリアには入港する客めあての苦力(クーリー)(出稼ぎの肉体労働者)と人力車がひしめきあい、多数のアリが合戦をくりひろげているかのようにみえる。
視線を右方にめぐらすと、外灘の道路を見下ろすように、背に大きな双翼を広げた女神像が立っている。女神は高い台座のうえに立つており、その目線の高さは四階の窓からみているエドマンドの目線とほとんど変わらない。
この像はビクトリア、すなわち勝利の女神像である。一九二四年に先の世界大戦でのイギリス、フランス等の戦勝を記念し、共同租界とフランス租界のちょうど境界にあたる場所に建てられた。
ビクトリアの足もとには小さな広場があり、そこだけは苦力や人力車はおらず、数人の幼児が駆けまわっている。ビクトリアは、子供たちがころばぬようにとやさしく見守っているかのようにみえる。
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黄浦江から吹いてくる秋の風が心地よく、頬に風を感じながら目を細めたとき、部屋のドアを強く叩く音がした。
爽やかな朝を破られた不快を感じながらドアを開けると、そこにはいっそう不機嫌そうな面もちのカドガン大使が立っていた。
「ドアが壊れるかと思いましたよ」
と皮肉をいうと、カドガンは
「リース=ロス卿のドアをいくら叩いてもでてこないのでここにきた」
といいながら、押し入るように部屋にはいってきた。
「いまは朝のウォーキングにでておられるのですよ──」
というエドマンドのことばに被せるようにカドガンは、
「あのスキームは明らかに非現実的だ。この国の政治情勢をわかっていない。なにが重要なのかを全く理解していない。あぁ。神はアマチュア外交官からわれわれを救ってくれるのだろうか」
とまくしたてた。
「あのスキームとは、なんでしょう」
エドマンドは突然の訪問の無礼に対し、とぼけることで抗った。
「むろん汪精衛との会見でのことだ。汪精衛に圧力をかけた件だ」
精衛は汪兆銘の号である。
「それは、すなわち?」
「しらばくれるな。満洲承認に絡ませたローンの件だ」
「ああ、なるほど」
「宋子文との会見でも、私が帰ったあとにローンの問題を切りだしたそうじゃないか。そういうやり方は好きではない」
カドガンはどさりと音を立ててソファに座った。
(なぜそれを知っている)
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