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『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第601〜660段落

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 二十一日のディナーの席でリース=ロスが宋子文に話した内容を聞いていたのは自分だけだったはずだ。リース=ロス夫人の耳にもはいったかもしれないが、夫人がそれを漏らしたとは思えない。ということは、カドガンは中国側から話を聞いたのか。

「会話の流れでそういう話になっただけで、大使がいないときを狙ったわけではないと思いますが」

 カドガンは短く鼻で笑い、

「日本で不調だったから、中国側から提案をさせようと考えているのだろうが、そのようなことを期待してもむだだ」

「どうでしょうか──」

とエドマンドはいったが、心中では、そのとおりかもしれないと思っている。日中双方の要人と話をして、満洲問題は雑に扱えば容易に壊れる陶磁器のようなものであることがわかった。にもかかわらずこだわり続ければ、思わぬ落とし穴にはまることになるかもしれない。

 カドガンが続ける。

「先月、汪精衛が辞職を申しでたことはきみも知っているだろう。あれは汪精衛の政策が対日宥和的に過ぎるという批判が激しく、身の危険を感じたからだ。あのときは結局蒋介石に説得されて辞意を撤回したが、いま満洲承認を持ちだせば命がないと汪精衛は思っている。汪精衛だけではない。ほかの誰がいいだしても、その者は葬られることになる」

「南京でリース=ロス卿がいっておられたように、一面抵抗、一面交渉を掲げ、かつ孫文の革命に参加した革命家でもある汪精衛ならば、みずからの命の危険を顧みずに日本との交渉をなそうとするということはありませんか」

「命というのは政治生命のことではないぞ。この国では指導者の暗殺が絶えない。自分が殺されるとわかっていれば主義も枉げざるを得ない。そうだろう」

 カドガンは同意を求めるように顎をしゃくったが、エドマンドは黙っていた。カドガンは構わず続け、

「もし汪精衛が満洲スキームに同意したとしても、そのときはそのときで新たな、それも重大な問題が発生する。対日強硬派は政敵を逐い落とす絶好の機会とみて対抗姿勢を明らかにする。いまは蒋介石が汪精衛の政策に同調することでこの国の安定がかろうじて保たれているが、対日宥和政策の分が悪いとみれば蒋介石は汪精衛との婚姻を解消する。この国は分裂し、群雄割拠の時代に逆戻りだ。そうなれば中国経済は崩壊し、われわれは甚大な損害を被ることになる。きみたちにはそれがわからないのか」

「しかしながら、この国の経済を建てなおし、わが国の利益を守るためにはカレンシー・リフォームが必要であり、そのためには潤沢な対外支払い準備が必須です。すなわちわれわれは、どうしてもローンを実行せねばならないのです」

「東京にローンをいいださせなくてはだめだ。しかし広田は『日本は満洲の現状に満足している』といったそうじゃないか。日本からいいださせることができるとは思えん。仮に日本がいいだすとしても、相当に厳しい条件をつけてくるだろう」

 一方的にまくしたてるカドガンの態度が気に障り、エドマンドは思わずとげのある口調で、

「ならばどうすればいいとお考えなのですか。僕は日本を絡めずとも直接ローンをおこなえばいいと思っています。しかし外務省としてはそれは受け入れられないのでしょう」

 エドマンドの口調に驚きカドガンは小さくのけぞった。

「そ、そうだ。そんなことをすれば日本と対立することになる。日本を飛び越えてローンを実施することは認められない。どうやってローンに日本を誘いこむか、それはきみら大蔵省が考えろ」

 電話機が鳴った。フロントからで、リース=ロスが外出から戻ったことを伝えた。

 カドガンは、

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「リース=ロス卿が戻ったらここに連絡するようにと頼んでおいたのだ」

といって立ち上がった。そして、

「まさにムーンシャイン(ばかげた話)だ。われわれの名はこの中国で泥にまみれることになるに違いない」

と、毒を吐きながら部屋からでていった。

 九月二十七日、宋子文との二度目のミーティングがおこなわれた。

 出席者はイギリス側がリース=ロス、エドマンド、イングランド銀行のシリル・ロジャース。中国側が宋子文と財政部顧問のアメリカ人、アーサー・ニコルス・ヤングである。

 このメンバーに、ときに孔祥煕を加えた六人は、この日から一ヶ月間毎日のようにミーティングを重ねる。五十五歳の孔祥煕と四十八歳のリース=ロスを除けばみな年齢が近く、また、もともと国際会議の席でなんども顔をあわせたことのある金融のスペシャリスト同士ということもあって、飾りのない率直な意見の応酬がなされるようになる。

 子文は銀本位制からの離脱の必要性を強く説いた。

 むろんリース=ロスも銀本位制は捨て去らなければならないと考えているのだが、敢えて、

「銀本位制から離脱すれば両替を主業務とする中小金融機関への悪影響は免れない。その点についてはどう考えておられるか」

と問題を提起した。

「多数の銭荘注や両替商が倒れることになるでしょうけれども、それはやむを得ないことです」

と、子文は迷わずにいった。

「しかしだね、TV」と、エドマンドが反論する。宋子文の英字表記は Tse-Ven Soongで、TVはその名の頭文字をとったもので子文は自分をそう呼んでほしいといった。「金融の混乱が大きくなりすぎる。取りつけ騒ぎが起きれば、経済という楼閣を建てなおすつもりで実施した改革が却って倒壊させる結果になる。中小金融機関救済の方策をあらかじめ考えておく必要があるのではないか」

「エド。孫文先生の始めた革命の道は未だ途上にあり、いま僕らが成そうとしていることも、この国の経済の革命なのだ。カレンシー・リフォームというよりも、むしろカレンシー・レボリューションなのだよ。革命なのだから多少の血が流れるのもやむを得ない。僕はそう思っている」

 子文の決意をうなずきながら聞いていたリース=ロスは「あなたがそういう決意をもっておられるのならば私はなにもいわない」といい、つけ加えて、「イッツ・ユア・フューナラル(It's your funeral)」といった。

 この「悪い結果となってもあなたが自分で責任を負わなければならない」という意味のイディオムをリース=ロスは軽い気持ちでいったのだが、子文はそれを知らず彼自身が葬られるという意味ととり、もともと大きな目をさらに見開いて驚いた。

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 リース=ロスが笑って「不吉な意味は全くない」と教えると子文は気を鎮めたが、

「しかしながら実際僕の命は危険に晒されるかもしれません。銀本位制離脱によって損を被るのは中小金融機関だけではなく、ほかにも大きな損害を被る者が多数います。例えば投機的目的で銀を多量に保有する者。マフィアは多量の銀を所持しています」

と、眉をしかめ困ったものだという顔をした。

「マフィアを救済してやることはできない」

とリース=ロスが、デスクのうえのほこりを払うようにぞんざいにいうと、子文は、

「上海のマフィアは、おそらく想像されておられるよりもずっと規模が大きく、政財界においても絶大な力を有しています。むろん彼らを救済することはしません。それどころか、手ぬるい改革では必ずや彼らの妨害を受けます。ゆえに一気に、かつ徹底的に改革を成さねばなりません」

と、声に力をこめていった。

 イングランド銀行のロジャースがいった。

「銀本位制から離脱するならば、通貨供給が恣意的にならないようにするため、政府から独立したセントラル・バンク制度を確立しなければならない。さもなければ発行紙幣に対する信認を得られない」

 セントラル・バンクはすなわち邦語では中央銀行だが、国民政府が設立したその名も〝中央銀行注〟との混同を避けるため、普通名詞としての中央銀行は以下セントラル・バンクと呼ぶ。

 ヤングが答えて、

「セントラル・バンクの政府からの独立はぜひ必要だと考えている。ただ、『政府からの独立』の意味が、いま百%政府保有となっている中央銀行の株式の一部を民間に保有させるということだとすれば、いまの収縮したマーケットの状況を考えると困難といわざるを得ない。段階を踏む必要がある」

 ロジャースはヤングに向かい、

「中央銀行株式の売り出しは段階的にやるにしても、複数の銀行によって紙幣が発行されている状況については早急にあらためなければならないぞ。通貨発行は中央銀行一行に独占させる必要がある」

 イギリスでは一八四四年に成立したいわゆるピール銀行条例によってイングランド銀行の紙幣発行権独占が規定され、それからすでに九十年が過ぎている。ゆえにリース=ロスらにとって紙幣発行がセントラル・バンク一行に独占されるのが常識である。

 ヤングが答えようとするのを子文が遮って、いった。

「銀行券発券機能については、中国銀行、交通銀行による発券も継続すべきと考えている」

 ロジャースが子文に訊く。

「中国、交通両行の銀行券発行機能を存続すべきというのは、どういう理由によるのか教えてもらえないだろうか」

「中央銀行は設立から七年しか経っていない。中国銀行と交通銀行は、その前身の銀行設立から数えれば約三十年だ。もちろんイングランド銀行の歴史には比ぶべくもないが、七年と三十年の差は大きい。中国、交通両行に対する民衆の信頼は大きい。いまの全紙幣発行高に占める割合は中央銀行券が三十%。中国、交通両行を合わせれば四十%と中央銀行を上回る。改革を円滑に実施するためには二行にも発行権を付与するのが望ましいのだよ。半年前に中国銀行と交通銀行の政府出資比率をそれぞれ五十%と六十%に引き上げたが、これは二行にセントラル・バンクの機能をもたせるための準備だったのだ。僕が中国銀行総裁に就任したのもその一環だよ」

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