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『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第661〜720段落

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全文は
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 リース=ロスは「なるほど」とうなずいたが、エドマンドには訊いてみたいことがあった。

「TV。気分を害さないで聞いてもらいたいのだが、僕はきみや、きみのお姉さんとその夫の孔祥煕財政部長らが職権を利用して私財を蓄積しているという噂を耳にした」

 エドマンドはそこで区切って子文の顔をみた。ぶしつけなことばを投げかけられてどのような反応をするかを窺ったのだが、子文の表情に変化はない。エドマンドは続けて、

「僕の耳にはいっているくらいだから、この国では広く知られた噂なのだろう。他の銀行の紙幣発行を禁じておきながら、きみ自身が総裁を務める中国銀行に発券機能を残すとなれば、人々はきみがこの国の経済と金融を支配しようとしているというだろう。カレンシー・リフォームはこの国の社会を根底から変える大事業だ。きみはそれを主導し、その後も変革期にあるこの国で数々の事業を成すことになろうが、つまらない噂で歴史に名を残す機会を失うことになるかもしれない。それでも構わないということだな」

 子文はエドマンドの目をしっかりみて、

「僕は政治家ではない。国民の人気に支えられて仕事をしているわけではないのだ。僕は民衆にどう思われようとも構わない。この国の経済や社会をよくするためにはどうすべきか、それだけを考える」

と、はっきりといった。

 議題は借款の問題に移り、子文はリース=ロスに向かって、

「カレンシー・リフォームのための外貨準備積み上げや国内外の政府債務整理などのために外国からのローンはぜひ欲しいと思っています。中国の経済情勢は深刻でありカレンシー・リフォームは一刻を争うのですが、ローンを得られることを期待して、イギリスからのミッションを待つことにしました」

といってことばを区切り、英字のタイプされた紙をリース=ロス、エドマンド、ロジャースの前に一枚ずつおいた。

 日本の新聞記事の英訳である。

 朝日新聞の記事で、その内容は、リース=ロスが広田外相に対し、日本がイギリスとともに二億円の借款を実施すればイギリスと中国は満洲国を承認すると提案した、というものである。

 読み終わってリース=ロスは眼鏡をとり、フレームの先を口にくわえた。エドマンドはそれが、驚きや怒りなどの感情を抑えるためのリース=ロスのくせであることを知っている。

 むろんリース=ロスはこのような記者発表はおこなっておらず、日本政府が不用意にリークしたものだろう。もしくは、借款の金額として日本政府に示していないでたらめな数字が書かれているところをみると、全くの憶測記事なのかもしれない。

「われわれが記者発表したものではない。広田外相に対してスキームの説明をしたのは事実だが、二億円などという数字はいっていないし、満洲国承認を約束したという事実もない」

と、リース=ロスはやや慌てていった。

「わかっています。日本政府の誰かが漏らした内容を記者が膨らませて書いたものでしょう。先日のディナーの席でローンのことを少し話しておられましたが、このスキームのことを話そうとされていたのですか」

 リース=ロスは満洲国に絡めた借款スキームについて詳述した。リース=ロスは「民衆にどう思われようとも構わない」といい切る子文ならば、国内世論の反対を顧みずにこのスキームに賛意を示すかもしれないと思っている。子文が賛同すれば、このスキームの実現が一気に近くなる。

 ところが子文は首を横に振った。

「カレンシー・リフォームはわが国が経済的苦境から脱するための単なる手段ではなく、経済的インフラストラクチャーの構築です。僕は、日本との戦いを戦い抜くためにはそれが是が非でも必要だと考えています。わが国と日本との関係は今後さらに悪化し、必ずや全面戦争に発展します。国を挙げての総力戦となります。それに耐えうる体力を得るために、通貨という血液を全面的に入れ替えようとしているのです」

全文は
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 エドマンドは驚きとともに子文の話を聞いた。むろん幣制改革はいまの中国に必須の経済的インフラストラクチャーの整備だと思っているが、きたるべき日本との戦争遂行のために必要な準備という考え方はしていなかった。

 現代のわれわれはこの二年後に日中両国が戦争状態にはいることを知っているが、この一九三五年の時点で日本と中国とが全面戦争に突入すると確信している者は世界中探してもほとんどいない。日本と中国との関係は険悪だが、この年には公使の大使への格上げなどもあって日中関係は若干の雪解けムードにある。汪兆銘ら対日宥和論者は日本との戦争は避けられると信じており、対日強硬派にしても、諸問題の解決のためには戦争が必要だと考えてはいても、戦争が必然という考え方はしてない。しかし子文は、あとで述べるように、一九三二年の第一次上海事変のときにはすでに戦争の勃発をいち早く予見していた。

 子文が続けて、

「国民革命軍は七年前に北京に入城し北伐を完成しましたが、この国は未だに分裂状態にあります。しかし、カレンシー・リフォームが実現して南京の紙幣が国じゅうにゆき渡ればこの国の統一は一気に進みます。僕のなかでは北伐は未だ途上にあり、この事業により完成するのです。孫文先生の始めた革命の総仕上げといってもいいでしょう。日本はこの国がひとつにまとまりきれない隙をついて満洲を分離し、華北に手をのばしてきています。日本はカレンシー・リフォームが中国の統一事業であると気づけば必ずや妨害しようとするでしょう。それに、ローンを得てカレンシー・リフォームを実行すれば、わが国は確実に強くなりますが、満洲に絡めた借款スキームによった場合、日本も満洲を得て大いに強くなります。まもなく敵となることがわかっている相手とそのような取引をおこなうことはできません」

 リース=ロスは再び眼鏡をとってフレームをくわえた。抑えている感情は落胆であろうか。

 子文が続けてリース=ロスに訊いた。

「いまのところ日本は、わが国のカレンシー・リフォームの目的は銀価格高騰に起因する不況からの脱出であり、日本との全面戦争のための準備とは捉えていないのではないかと思うのですが、先日の日本訪問での様子はどうでしたか」

「どうだろう。少なくとも私はそういう印象は受けなかった」

 子文がうなずき、

「日本の新聞記事などをみていると、そうであろうと思っていました。ただ、僕のいう日本との戦争の準備という観点に気がつく日本人は必ずいます。いったん気づけば、日本はカレンシー・リフォームに協力しようとするはずはなく、むしろ妨害しようとするでしょう。いえ、すでに気づいているのかもしれません。僕の考えに気づいている者が日本政府内で動き、そのため、みなさんの日本訪問の際に日本政府から否定的なことばしか聞かれなかったのかもしれません」

 エドマンドは、重光との会見のときに重光のうしろに控えていた男のことを思いだした。名はなんといったか。

 エドマンドは記憶をたどり、

「ケイ──ケイ・モリオ」

とつぶやいた。

 子文が怪訝な顔でエドマンドをみたが、エドマンドは「いや。なんでもないよ」と首を振った。

 この日の夜、リース=ロスは九月二十一日に上海にはいってから一週間の中国政府要人との会見内容の報告を作成した。

 発信前に報告書をみせられたエドマンドは、借款の問題について無理をして書いている、という印象をもった。

 満洲国に絡む借款について、汪兆銘や宋子文は、はなから否定的な態度であったにも関わらず、両者ともにスキームに一定の考慮を示したかのように書いている。

 そして末尾にはリース=ロス自身のコメントとして、

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〈政府要人たちはみなアイディアを拒絶してはいないという印象をもっている。この計画はある程度のインプレションを与えた。問題は、中国政府が動いたとしても、日本政府がそれに応える姿勢をみせていないことである。中国政府は、日本政府が応答するという確たる保証がない限り、国内において大きな政治的混乱を引き起こすリスクを冒すことはないだろう〉

としている。エドマンドは苦笑をこらえながら、

「もはやこのスキームの実現は、上海と長崎とを直接結ぶ橋を架けるのと同じくらいに難しいように思いますが」

「確かに難しい。しかし、日本と中国とのデタント(国家間の緊張緩和)は、わが国の中国における莫大な権益を護るためにもどうしても必要なのだよ」

「デタントが必要ならば、ほかの方策を探してみるべきだと思います。満洲国承認は触れてはいけない問題であることがよくわかりました。満洲問題にこだわれば、日中両国にわれわれの真意を疑われ、カレンシー・リフォームの実現が却って困難になると思います」

「きみのいうことはわかるよ。わかるんだがね──」

 リース=ロスはそれ以上ことばを続けなかった。エドマンドも、

(はっきりと認めたくないのだろうが、もはや諦めておられる)

と思い、さらに問うことはしなかった。

 リース=ロスの報告はその文面のままで電文に起こされ、ホーア外相宛に送致された。

 そのわずか四十五分後、カドガン大使がホーア外相宛に〈以下の意見をventure to submit(敢えて提出する)〉という文言ではじまる電文を送っている。

 同電文でカドガン大使は、〈中国の大臣たちは満洲国承認など問題外であるといっている〉としたうえで、〈彼らに強要すればわれわれに対する深い不信感を抱かせることとなり、われわれが日本と協調して行動していると思わせることになる〉とし、続けて、〈このことがヨーロッパの他国の知ることとなった場合、国際連盟において強硬措置の採用が検討されている現状において、どのような影響があるかわからない〉と述べている。

 ここでいう〈強硬措置〉とは、イタリアのエチオピア侵攻に対する国際連盟主導の対抗措置のことで、つまり、満洲国承認を進めればイギリスは東アジアにおいてはファシズムに寛容もしくは加担していると捉えられ、アフリカにおいてファシズムに対抗する旗を振っても賛同を得られなくなる、としたのだ。

 そして、〈よってわれわれは、まずはカレンシー・リフォームの可能性を精査するテクニカル・ワークに特化すべきと考える。私は、外部からの援助がなくても改革は成し得ると思う〉という意見で電文を結んだ。

 イギリス外務省は、イタリアのエチオピア侵攻問題に悪影響を及ぼしかねないという部分に特に反応し、省内で議論をおこなった。そして、大蔵省の承諾を経て、十月三日にホーア外相からカドガン大使宛に回電した。

 ホーア外相は同電文で、〈現在のヨーロッパ情勢に鑑みて、中国に満洲国承認を強いていると思わせるようなことは避けねばならない〉とし、〈サー・F・リース=ロスが中国と満洲承認問題に関わる提案について論じる際には、このことに配慮することが重要である〉と述べて、リース=ロスに対して十分に釘をさすようカドガン大使に命じている。

 これに対してカドガン大使は十月八日、〈サー・F・リース=ロスにメッセージを伝え、彼は現在純粋な金融問題に特化している〉、〈電文の記載内容は確実に(リース=ロスの)心に留められている〉という内容の回電をおこなった。

 満洲国承認を絡めた借款スキームは、こうして歴史から消えた。 

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