『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第721〜780段落
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小島譲次は南京陸家巷(ルージアシアン)の小さな食堂にいる。
聯盟通信社の上海支局長である小島は月に一、二度南京を訪れる。そして、この半年ほどは、ほかに予定がなければ必ずこの店で昼食をとる。
小島はひとりの男を探している。男の名は燕克治※。暗殺者である。
小島が燕克治を知ったのは四年前だった。江西省廬山注で蒋介石暗殺に失敗した燕克治が、たまたま蒋介石へのインタビューのために同地にいた小島の宿の部屋に逃げこんできたのだ。銃で脅された小島は、燕克治への興味もあって、半年後には記事にするという条件をつけ逃亡を助けた。結局記事にはせずに、ときが過ぎ、燕克治の消息も途絶えたのだが、先ごろ南京に晨光(チェングアン)通詢社という誰も聞いたことがない新聞社が設立され、その代表者の姓名が〝陶譲〟だということを知った。〝陶〟という姓の音は〝島〟の音に近く、〝譲〟という名は中国人には珍しい。ゆえにこれは小島の姓名から〝島譲〟の部分を抜きだしてつくった燕克治の仮名で、晨光通詢社は彼が蒋介石暗殺の隠れ蓑として設立したものではないか、と思ったのだ。晨光通詢社の住所はこの食堂の二階である。
午後二時が近くなり店のなかの客の数がまばらになった。
会計を済ませ、「さて、いくか」とつぶやき立ちあがったとき、店の扉を開いてはいってきた男と目があった。
燕克治だった。
燕克治は一瞬動きをとめ、くるりと背中を向けて店からでていこうとした。
小島は「欸(エイ)、欸(エイ)、是我(シーウォ)(おい、おい、僕だ)」と親しげに背中に向かって声を掛けた。
燕克治は足をとめ振り返り、苦いものを噛み潰したような顔をした。
燕克治は小島と方卓をはさんだ位置に座りながら、
「偶然か。であるなら、あんたとはよっぽど相性がいい」
といった。
「偶然のわけがなかろう。きみに会うためにここに通いつめた」
と、小島は朗らかにいった。
「なんのようだ」
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燕克治は対照的に低い声でいった。
「なんのようだ、はないだろう。きみのことを記事にさせてもらう約束があるではないか。取材だよ、取材」
燕克治の目が険しくなった。獲物に飛びかかろうとしているけもののような目だ。
「おっ。そのような表情をするということは、計画をまもなく実行するということか」
燕克治はすばやく左右をみた。店のなかに客は少なく、誰にも声を聞かれてはいない。
燕克治は小島を睨みつけた。小島は両手のひらを前に向けて、
「安心しろ。四年前のきみとの約束を延長するよ。きみが蒋介石暗殺に成功するか、もしくは失敗して死ぬか逮捕されるまでは記事にはしない」
「そのような約束を未だにもちだすのか。自分の口をふさがれるとは思わないのか」
「四年前、僕はきみとの約束を守ってきみの記事を書かなかった。しっかりと約束を果たしたのだから、きみに殺されるとは考えられない」
燕克治は「ふふっ」といって微かな笑顔となった。
「それで、きみは相変わらず蒋介石を狙っているんだな。ほかの人間は狙わないのか」
「蒋介石だけだ」
と、燕克治は煩わしそうにいった。
燕克治は金銭を目的に殺人をおこなう殺し屋ではない。中学より学業優秀で金陵(ジンリン)大学に進んだ燕克治は孫文の三民主義注に傾注し、孫文の後継者のような顔をしつつその教えにそむく蒋介石を憎んだ。蒋介石が国民党諸派を叩き政府を乗っ取り、一九二七年には上海の労働者を大量に殺し共産党を執拗に弾圧し続けるのをみて、燕克治の憎悪は巨大になり、安徽省出身労働者を中心とするマフィア〝斧頭幇(フートウバン)〟の首領で〝暗殺大王〟の異名をとる王亜樵※のもとで蒋介石殺害をもくろむ暗殺者となったのだ。
「しかしきみらにも依頼主がいるのだろう。二年ほど前なら福建の人民革命政府が依頼主と推察できたが、いまならば依頼主は誰だろう。まさか共産党あたりか」
福建の人民革命政府というのは、蒋介石に対抗し、国民政府の十九路軍注が中心となって一九三三年に福州に樹立された政権のことである。樹立からわずか二ヶ月で蒋介石により討伐された。
「知らん。知っていてもいわん」
「まあ、それはそうだが、しかし蒋介石だけを狙うなどという、いわばきみのわがままが通るのかなと思ってね。もし共産党が依頼主だとすれば暗殺の相手は汪兆銘でもいいだろう。汪兆銘が旗を振る対日宥和的な政策が崩れれば、軍の矛先の向きが共産党から日本へと変わるだろうからな」
汪兆銘は〝一面抵抗、一面交渉〟を掲げ対日宥和路線を採り、国内に湧き起こる「日本と対決すべし」との批判は主に汪兆銘に向けられている。蒋介石は〝剿共(ジアオゴン)(共産主義討伐)〟を優先し、日中間の問題は軍事ではなく外交によって解決するという考えでおり、つまりは汪兆銘と蒋介石の政策は一致しているのだが、蒋介石は汪兆銘の陰に隠れて自分に向けられるべき批判をかわして共産党討伐を進めている。汪兆銘が倒れれば、蒋介石は共産党に向けている矛先を日本に向けざるをえなくなる。共産党にとって利が大きいのだ。
「多少以前とは状況が変わっている。以前はうえから指示を受けたが、いまはこちらで計画をつくり、うえに資金を仰いでいる。晨光通詢社の設立も私が考えたことだ。設立資金はうえにださせたがな」
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「なるほど。つまり少なくともいまは自分の意志を貫けるということか。蒋介石を殺すという意志を」
「まあ、そうなんだが──」
と、燕克治の語尾が濁った。
「おや?違うのか」
「まあ、刺客といえども、いろいろと事情があるのだよ」
店の扉が開き、男がひとりはいってきた。キツネを思わせる細く冷たい目だ。
燕克治が男に向かって顎を振った。でていけ、という意味か。
男は踵を返し、店からでていった。
「仲間か」
と小島が訊くと、燕克治は低い声で、
「詮索するな。さもなければ、やはりあんたには消えてもらわなくてはならなくなる」
「恐ろしいことをいうんだな。脅かさないでくれよ」と、小島は肩をすぼめ、「それで、事情っていうのはなんだい。刺客の事情というのは想像もつかないよ。話してみろよ。相談に乗るぞ。人殺しと銭以外の相談に限るが」
「じゃあだめだ。人殺しのための銭の話だ」
「銭かぁ。まあそうだよな。刺客といえども銭は必要だな」
「自分ひとりなら銭などなくてもどうにでもなる。しかし同志がいるし、ここの二階の事務所を借りる費用もある」
燕克治はひとさし指で天井をさした。
「銭はさすがに援助してやるわけにはいかないなぁ」
「ならば相談に乗るなどと軽はずみにいうな」
燕克治はそういって、「ハハッ」と短く笑った。
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