『カレンシー・レボリューション』立ち読み 第841〜900段落
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「この情報が万が一にも漏洩すれば大変なのでくれぐれも気をつけてもらわねばならないが──」ヤングは紙に書かれている数字を指さし、「対ドルで一元二九セントから三〇セント、対ポンドで一元十四ペンスから十五ペンス程度とすることを考えている。アメリカによる銀買い入れ政策が始まり銀価格が歪むよりも前の時期の平均レートだ」
エドマンドは小さく笑い、
「日本円への気づかいが垣間みられるな」
「さすがに気づいたか」といって、ヤングも笑った。「確かにそうなんだ。日本円の水準が切り下げ幅の下限にならざるを得ないと考えている。いまの日本円一円は二八・七セント程度だ。わずかにでも日本円よりも安い水準にレートを設定したら、粗探しを生き甲斐にしている日本のことだ、通貨安競争を仕掛けてきた、と難癖をつけてくるだろうからね」
エドマンドは「うぅむ」と喉で唸るような声をだし、「レートをそのような理由で決めていいのだろうか」
「そのような、とは?」
「日本円の水準を切り下げ幅の下限とするということだよ」といって、エドマンドは孔祥煕に向かい、「一度決めた為替レートが、その後長期にわたって安定していることは極めて重要です。長期間保つことができる水準に最初の為替レートを定めねばなりません」
孔祥煕に向かっていったのは、孔祥煕以外はみな金融のエクスパートであり、いうまでもないことだからだ。エドマンドは続けて、
「適切なレートの採用が貿易や物価の安定のために重要なことはもちろんですが、適切に定めたレートを維持することができれば、国外に逃避している資本が中国に還流してくることにつながります。その額は相当の規模になるでしょう。それにより中国の対外支払準備は増強され、カレンシー・リフォームの成功がより確実なものとなります」
ヤングは、
「きみのいうとおりだが、国際情勢を考えないわけにもいかないんだ」
と、歯切れが悪い。
「日本に通貨安競争といわれても構わないじゃないか。通貨安競争だと文句をいってきたとしても、それだけのことだ。軍隊を送ってくるわけではない。それにしばらくすれば、そんな論争があったことも忘れてしまうさ。中国と日本の間にはそれよりよっぽど重要な問題が山積みなのだから」
ヤングが孔祥煕の顔をみた。孔祥煕は表情を変えない。ヤングは、
「この点はやむを得ないのだよ。理解してくれたまえ。ただ、われわれは少なくとも一年は新しいレートを保つつもりだ。その間に日本円のほうが変動し、対ポンド、対ドルで強くなったとしても、われわれはそれにはついていかない。そうすれば元と円は逆転して元のほうが円より安くなる」
と、弱々しくいった。新しい元レートを日本円よりも高い水準に設定するというのは孔祥煕の指示なのだろう。
エドマンドが諦めて口を噤むと、新レート案の紙をみていたロジャースがいった。
「新レートはいまのレートから二十%以上の切り下げになる。短期間でレートが二十%も動けば大きな混乱は免れない」
ヤングが答えた。
「多少の混乱があろうともやらねばならない。長い時間をかければ、のちのちさらに大きな混乱が発生することになる」
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腕組みをしてやりとりを聞いていたリース=ロスが口を開いた。
「その『レート』というのは、いったいなにに対するレートかね。ドルか、ポンドか。それとも金か」
「金本位制の採用は全く考えていません」
と、子文が即座にいった。ヤングが
「ドルかポンド、そのいずれかです」
と補足していった。リース=ロスは、
「二年前にアメリカが金本位制を停止したとき、ドル・レートは大きく変動した。その事例から考えれば、ドルよりポンドのほうが安定している」
エドマンドは思わずリース=ロスの顔をみた。ドルよりポンドのほうが安定しているとする根拠としては弱いと思い、発言の意図をはかりかねたのである。
同じように思ったのか、子文がいった。
「二年前の事例は一時的なものです。その後の推移をみると、どちらのほうが安定しているといい切ることはできません。将来を考えてみれば、政治情勢が複雑なヨーロッパの一国である貴国の通貨よりドルのほうが安心感があるといえるかもしれません」
「しかし──」と、リース=ロスはポンドとのリンクの利を説く。「貴国の貿易はドル建てよりポンド建てのもののほうがずっと多い。ならばポンドを採用すべきではないかと思う」
リース=ロスは中国にポンド・リンクを採用させたいようだ。露骨といっていいセールス・トークだ。
「確かにドルと比較すればポンド建ての貿易のほうが多いのですが、ポンド建ての貿易とそれ以外の通貨建ての貿易という比較をすれば。ほぼどちらも同じ金額です。つまりポンドが圧倒的に多いともいえません。ポンド通貨圏には日本がはいっています。しかし今後日本との関係は悪化するので、ポンド通貨圏との貿易額は減ります。ポンド建てよりドル建てのほうが多くなることもあり得ます」
子文はよどみなくいったが、リース=ロスはポンド・リンクにこだわり、
「ロンドン・マーケットで債券発行をおこなうときのためにもポンドにリンクさせておくべきだと思う。そのほうが資金のだし手である投資家にとっても、借り手である中国にとってもリスクが少なくていい」
ヤングが答えて、
「債券発行で資金調達ができるのであれば、確かにポンド・リンクにしておいたほうがいいかもしれません。しかし中国の債券がロンドン・マーケットで消化され得るでしょうか」
リース=ロスは一瞬間をおいてから、
「いや。デフォルトのリスクが高く、難しいでしょう。まず不可能といってもいい」
と弱々しくいった。子文が、
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「ポンド・リンクを否定しているわけではありません。この件は全くの白紙です」
というと、孔祥煕は、
「実をいえば、アメリカからはドル・リンクが銀購入の条件だといってきています。この条件は受け入れざるを得ないのかもしれません」
と、子文のことばを訂正した。
それを聞いてリース=ロスは、
「では、仮の話ですが、わが国が『ポンド・リンクがポンドのローンの条件』といえば、その条件ものまざるを得ないということでしょうか」
孔祥煕が答えて、
「われわれが結婚できる相手はひとりだけです。そしてわれわれは選り好みをしすぎて嫁にゆき遅れることを恐れます。先にプロポーズをしてきたほうにイエスと答える可能性が高い」
孔祥煕は人好きのする穏やかな顔でそういったが、詰まるところは、ポンド・リンクをしてほしければアメリカの銀購入よりも先にポンド借款を実行しろと迫ったのだ。
エドマンドは子文の顔をみた。
子文は腕組みをし、口を噤んでいる。表情からその心中を察することはできないが、孔祥煕とはなにか異なる考えがある、とエドマンドは思った。
森尾慶は、上海虹口の日本料亭〝東語(とうご)〟の小部屋で苛立ちながらタバコをふかしている。灰皿の吸い殻はすでに十本を超えた。それでも待ち合わせの相手は現れない。
森尾が待つのは上海駐在武官の磯谷廉介※少将とその補佐官の影佐禎昭(かげささだあき)中佐である。長期出張で上海にきた森尾の歓迎会をするからといわれたのだが、相手は上官とはいえ、歓迎されるほうが一時間以上も待たされているというのはいかがなものなのか。
森尾が上海にきたのは中国金融情勢の調査が目的であり、特に、数日前に上海にはいったリース=ロス一行の動向を追い、幣制改革の進捗状況を探る。
表むきの出張目的はそうだが、幣制改革の実施が近いとなれば、それを阻止する方策を考え実行せねばならない。ただ森尾は、幣制改革は必然の流れであり、その流れを押しとどめることは非常に難しいとも思っている。幣制改革が実施されるという前提で、それをいかにして日本の東アジア政策にとって有利なものになるよう仕向けるか、それを考えなければならない。
となりの座敷が騒々しい。漏れ聞こえる会話から海軍の上海陸戦隊の連中のようだ。複数の芸妓もいるようで、太い声の笑い声の合間にかん高い叫び声のような笑いが混じっている。
自分のいる部屋が無音なだけに隣の音が耳につく。森尾の苛立ちはいっそう深まった。
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