柳場賢 | いわゆる「不良邦人」だが、かつては大蔵省一のエコノミストと言われた男。金解禁に絡む失策により1931年に大蔵省を退官。その後上海に渡り銀相場で財を成し、上海フランス租界内の瀟洒な洋館で美人ダンサーとともに優雅に暮らす。日中戦争開戦直後は上海・天津で通貨間裁定取引を行っていた。セブン・スタッド・ポーカーはプロ並みの腕前。柳のような柔軟な発想が身上。1901年生。 |
範策 | 身長は180cmを優に超え、胸板も分厚い巨漢。腕に自信があり、時に柳場賢のボディーガードを務める。1905年生まれ。 |
大蔵省(入省年次順) |
小野龍一 | 1917年入省、理財局に配属される。1938年2月に財務官として北京に赴任。帰任は同年6月だが、短期間に中国聯合準備銀行設立などの重要政策を担う。自分と同じ理財局畑であった柳場賢をかわいがっている。1892年生。 |
湯川武夫 | 1938年6月に小野龍一の後任として北京着任。小野に引き続き柳場賢を嘱託顧問として重用するが、柳場に対する信任は小野ほどは厚くない。 |
秋川行朝 | 理財局外事課長(1942年2月時点)、大東亜省支那事務局理財課長(1943年10月時点)等を歴任。「中国は日本の植民地ではない」が持論で、占領地を切り捨ててでも日本経済を護ろうとする愛田と衝突する。1905年生。 |
愛田健一 | 1931年入省。小野龍一とともに北京に赴任。1939年4月に同じ北京で興亜院華北連絡部に転出し経済第一局金融班長に就く。上海の財務官事務所で一年間の勤務ののちに大東亜省総務局経済課長(1943年10月時点)。年長者に対しても物怖じせず物を言い、柳場賢とも時に口論となるが、柳場を慕っている。柳場の考えを読める明晰な頭脳をもつ。1907年生まれ。 |
東郷武史 | 1932年入省。興亜院華北連絡部で愛田健一とともに働く(1939年6月時点)。終戦直前、外資局総務課長として外資金庫の実質的責任者。 |
小島寛太 | 1937年入省、理財局国庫課に配属され愛田健一の部下となる。小野龍一とともに北京に赴任し、北京財務官事務所の立ち上げを行う。1914年生。 |
吉田英太 | 1938年入省。小島寛太の後任として北京に赴任。 |
国民政府(蒋介石政権) |
アーサー・ ニコルス・ヤング
| 1929年にアメリカからの金融顧問団の一員として一年の予定で中国に来たが、中国の幣制改革を完遂するため、任期満了とともに帰国せず、アメリカ国務省を退職して国民政府の経済顧問となる。幣制改革完了後も、中国の経済効率を上げ貧困と戦うことを決意し、奥地へと敗走する国民政府と行動をともにする。1890年カルフォルニア出身。 |
孔祥熙
| 国民政府行政院長(首相格)で財政部長(大臣格)を兼ねる。ビジネスに成功し莫大な財を有する。妻は宋三姉妹の長女、靄齢。1880年生。 |
国民政府(汪兆銘政権) |
李子群 | 特工総部、俗称「ジェスフィールド76号」の主任。顔には柔和な笑顔をたくわえるが、冷徹。上昇志向が非常に強く、出世のためには手段を選ばない。 |
周仏海 | 財政部長兼中央儲備銀行総裁。特務委員会の主任も兼ねており、李子群の上司にあたる。 |
イギリス政府 |
エドマンド・レオ ホール=パッチ
| 1935年にイギリス大蔵省のリース・ロス経済使節団の一員として上海に赴任。使節団帰国後も中国金融市場の安定と発展のために財務官として上海に残る。日中間の和平にも尽力する正義感溢れる好漢。パリのキャバレーやニューヨークのナイトクラブでプロのサックス奏者として生計を立てていた経歴をもつ。柳場賢が大蔵省を退官する一因をつくる。柳場賢はホール=パッチに対して悪意を抱いているが、ホール=パッチは柳場賢を深い友人だと思っている。1895年生。 |
アメリカ政府 |
ラフリン・カーリー
| ルーズベルト大統領の特使として、国民政府(蒋介石政権)統治地域の政治、経済、軍事情勢の調査を行う。調査報告において孔祥熙を酷評する。 |
クレアランス・ガウス
| 重慶大使。国民政府(蒋介石政権)支援にやや否定的態度。1887年生。 |
日本軍 |
寺内寿一 てらうち・ひさいち | 北支那方面軍司令官、陸軍大将(1938年2月時点)。小野龍一に対して、中国聯合準備銀行開業にあわせて日本円と法幣の1対1の交換が可能となるよう強く要請する。結果、小野は無理な市場介入をせざるを得なくなった。1879年生。 |
喜多誠一
| 北支那方面軍特務部長、陸軍少将(1938年2月時点)。1939年3月、中将に昇格し興亜院華北連絡部長官。柳場賢に初めて会った時はその不遜な態度をとがめるが、のちにその才を認めるようになる。1886年生。 |
武藤章
| 北支那方面軍参謀副長、陸軍少将(1939年6月時点)。天津租界封鎖にかかる日英交渉に現地代表として出席。1892年生。 |
山本憲蔵
| 陸軍主計少佐。登戸研究所で法幣贋札工作に従事する。 |
西野藍二
| 上海憲兵隊特高課分隊長。 |
金融関連 |
青木一男 | 1916年大蔵省入省。1940年1月に大蔵大臣辞任後、同年4月より中華民国派遣特命全権大使顧問兼大蔵省顧問、1942年2月より国民政府(汪兆銘政権)経済委員会最高顧問に就くなど、対中国金融政策の重鎮。1944年、占領地通貨の公定レート切り下げ問題で、大東亜大臣であった青木は占領地経済を重視する立場をとり、内地経済を優先する賀屋興宣大蔵大臣と対立する。1889年生。 |
阪谷希一 さかたに・きいち | 中国聯合準備銀行の日本人顧問。 |
中野正永 なかの・まさなが | 朝鮮銀行北支総支配人。のちの占領地通貨無尽発行の基礎となる預け合い契約を発案。 |
宗像久敬
| 日銀参事。中支那派遣軍顧問として上海に駐在。上海に租界をおく各国の共同による銀行設立を模索する。 |