「上海エイレーネー」=上海の平和の女神。すなわち本作は、上海を舞台とした平和の物語です。
本作の主人公は実在の女性、鄭蘋如をモデルとしています。鄭蘋如は複数人の回想録にも「絶世の美人」「これほどの美人はいまだに見たことがない」などと記述されている女性で、日本軍により設立された特務機関のトップ暗殺に加わったことや近衛文麿の長男と交際していたことなどから、過去の小説や映画において、ハニー・トラップをも辞さないしたたかな人物として描かれてきました。それらは戦後まもない頃の断片的な資料に依っていることが多いのですが、最新の資料や証言をも加えて読み解けば、別の彼女の姿が見えてきます。そこで本作では、彼女を日中両国の狭間で悩み苦しみ、両国間の平和を希求する女性と捉えて、暗殺に加わった理由などについて仮説を加えつつ、より素顔に近い彼女を描くことを試みています。
「和平」は、本作のもうひとつの主人公です。日中戦争は、残忍な戦闘も行われる一方で、和平に向けた活動が積極的になされ、それも同時に複数の工作が進行するという、特異とも言える紛争でした。軍人、外交官、民間人など各方面の人々が参画する和平活動は、やがて蒋介石との直接和平を目指す派と、汪兆銘による政権を立ち上げその政権と和平を実現し戦争を終結させようとする派とが激しく対立するようになります。本作ではその対立を中心に据えつつ、和平仲介のために南京-上海間を移動中の英国大使が謎の航空機に襲撃された事件や、暗殺者に狙われる汪兆銘を民間人に扮した陸軍大佐がハノイにまで救出に向かったことなど、歴史的ドラマをも交えて和平活動を描いていきます。