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『ステーツマン』立ち読み 第301〜360段落

本ページで『ステーツマン』 第301〜360段落を立ち読みいただくことができます。

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 蒸気船が蒋介石の目の前に着岸した。

 デッキに立つ靄齢はにこやかに乗船を促した。蒋介石は陳立夫と衛兵を埠頭に残し、ぎこちない微笑みを浮かべて船に乗りこみキャビンにはいった。

 蒋介石にソファに座るよう促しながら、靄齢がいった。

「がっかりしたでしょう。デッキに立っていたのが私で」

「はい。あっ。いえ。とんでもありません。よくぞいらっしゃいました」

「無理をしなくてもいいです」

「それで、美齢小姐は?」

「安心なさい。一緒にきていますよ。ただ、お会いいただく前に、少しご相談したいことがありましてね」

「相談、ですか──」

 蒋介石は警戒し、ぎこちない笑みを消して真顔になった。

「美齢とのことについてです」

「はあ。どのような──」

「美齢とかなり親しくしていただいていますが、今後、どうされるおつもりなのか。お聞かせいただけませんか」

 唐突な問いだが、蒋介石は戸惑わなかった。その問いに対する答えは決めてある。

「妻に迎えたいと思っております」

と、蒋介石は軍人らしく、きっぱりといった。

「そうですか」と、靄齢は感情を感じさせない冷めた声でいった。「しかし、あなたには奥様がおられるではないですか。どうなさるおつもりですか」

「そ、それは──」

と、蒋介石は口籠った。その問いに対する答えは用意していない。

「母はふたりの結婚に反対しています。妻も子もある男性との結婚は認められないといっています。慶齢も反対しています。慶齢は母以上に強く反対しています。聞くところによれば、あなたには三人も奥様がいらっしゃるとか」

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「いえ。最初の妻は十代のころに親にいわれて妻にしたもので、愛もなく、彼女はいまは仏門に帰依しています。ふたりめは歌姫を身請けしたものですが、次の妻を娶るときに、カネを渡して夫婦関係を絶ち、いまは兄と妹の関係になっています」

「三人目が陳潔如(チェンジエルー)ですね。彼女とはずいぶんと仲がよさそうですね。私の家にお招きした際も、おふたりが寄り添っておられるのをみました。いっしょに暮しておられるのですよね。広州からこちらへ呼び寄せたと聞きましたが」

「はい。九江に住んでおります」

「どうするおつもりですか。まさか美齢を妾にしようというのではありませんよね」

「とんでもありません」

「では陳潔如はどうされるのですか」

「当然──」

 蒋介石は、当然手を切る、といいかけたが、あらかじめ決めていたわけではなく、いまここでそれを約束することは、むしろ軽薄ととられるのではないかと思い、口を噤んだ。

「母はあなたが美齢を正妻とするのであれば結婚を許すかもしれません。しかし慶齢はだめでしょう。慶齢はああみえて激しい性格ですから、あなたと美齢が結婚するのをみるぐらいなら『美齢が死ぬのをみる方がいい』とまでいっています」

「でも、孫中山先生にも奥様がいらして、お子さんもいらした」

「そうです。慶齢自身が妻と子のある男性と結婚しています。だからこそだめだというのでしょう。孫中山先生と慶齢は仲のいい夫婦でしたが、われわれにはわからない辛い思いをしたのだと思います。自分と同じ辛い思いは妹にはさせたくないと思っているのでしょう」

「はあ──」

 蒋介石は、慶齢の感情がよく理解できず、曖昧な相槌を打った。

「慶齢は、あなたは美齢のことを好きなのではなく、ただ孫中山先生の義弟になりたいだけなのだ、ともいっています」

「そんなことはありません」

 孫文の妻の妹を娶ることにより孫文の義弟となれば、孫文の後継者としての地位が一層固くなると思っていないといえば、うそになる。ただここは、きっぱりと否定しておかなくてはならない。

「では愛しておられると」

「心から愛しております」

 蒋介石は、恥ずかしさをおさえ、きっぱりといった。

「最初の奥さまや二番目の奥さまより三番目の奥さまの実家の陳家の方が立派な家だったから結婚した。そしていま、陳家より宋家の方が大きな資産を有しており、その次女が国母ともいわれるほどの女性だから宋家の娘を妻に欲しいと考えている。そうではありませんか」

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「そ、それは──」

と、蒋介石は口ごもったが、靄齢は答えを待って蒋介石の目をしっかりとみている。蒋介石は思わず目を伏せた。気圧される自分が忌々しかった。靄齢が小さく笑う音が聞こえた。

「でも、私は慶齢とは違いますよ。ふたりの結婚に反対しているわけではありません。条件によっては、ふたりの結婚に賛成し、母と慶齢の説得もいたしましょう」

「条件?」

 蒋介石は伏せた目をあげた。目の前に座っている、頬は丸々とし、その頬につりあう大きな鼻で、それでいて小さくどんよりとした瞳の女は、やはり美齢と同じ親をもつ人間とは思えなかった。

「はい。条件を受け入れていただければ、私がふたりを結婚させてあげましょう」

「お聞かせください」

「まずは、陳潔如と別れること」

「彼女を妾にしたのではだめだということですか」

「もちろんだめです。同じ街にいて、いつでも会えるというのもだめです。慶齢が承諾しません。完全に別れていただく必要があります」

「完全に別れる?」

「彼女がこの世からいなくなるのが一番いいんですけれどもね」

 冗談なのか本気なのか判断がつきかね、蒋介石は靄齢の顔をまじまじとみた。靄齢が続け、

「別れかたはお任せしますが、とにかく完全に別れていただきます。それが第一の条件。そして第二の条件は──」

 靄齢がもったいぶるように間を空けたので、蒋介石はごくりと唾を飲みこんだ。

「第二の条件は、あなたが王となることです」

「えっ?なんとおっしゃいました」

「王となること、それが第二の条件です」

「それは、つまり、新たな王朝を開けということでしょうか」

 自分の口からでたことばの恐ろしさに、蒋介石は一瞬背中を震わせた。

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