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『ステーツマン』立ち読み 第61〜120段落

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全文は
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「そう思っているのはあなただけ。あなたがいなければ今日こうして武漢にはいることはなかったわ。国民党はとうの昔に崩壊していたでしょう。あなたなしでは一日だってもちはしない」

「姉さんにそういってもらえるのは嬉しいけど──」

「どうなの。あなたの考えを聞かせて」

 子文は慶齢に並んで立ち、手摺りに肘をついて川面に視線を落とした。

「僕は、孫中山注先生の遺志を実践するだけだよ」

 アメリカに留学し自由主義経済に浸かった子文は共産主義に対して批判的で、共産党と連携するいまの国民政府に疑念を抱いている。ゆえに共産党排除の気配をみせる蒋介石に共感するところもあるのだが、一方で、孫文の教えを忠実に守り、かぼそい両腕で必死にこの国の未来を切り開こうとしている慶齢を全力で支えたいと思っており、その気持ちを、孫文の遺志を実践する、ということばで表したのだ。

 慶齢は、子文のことばに満足したのか、まばゆい微笑みを浮かべ、遠くにみえてきた武昌の街を望んだ。

「ほら。きれいよ。みてごらん」

 慶齢は武昌の埠頭を指さした。

 この汽船の到着を迎える群衆がみえる。南昌でも九江でも迎えのひとの多さに圧倒されたが、ここでもおそらく万を超える労働者や農民が集まっている。人々は幟を押し立てて汽船の到着を待っている。そこに書かれている文字は読みとれないが、無数の幟が風にはためくさまをみて姉は無邪気に「きれい」といったのだろう。しかし子文には美しいとはとうてい思えなかった。南昌でも九江でも、群衆に囲まれたとき、その熱狂ぶりに恐怖を感じた。いまも背中にうすら寒いものを感じている。

 群衆が集まる埠頭のすぐそばに数隻の軍艦が停泊している。

 慶齢がつぶやいた。

「呉佩孚(ウーペイフー)は追いだしたけど、武漢はまだわたしたちのものになっていないのね」

 子文は軍艦のうちのひとつを指さした。

「あれはコックチェイファーかな」

 コックチェイファーはイギリス海軍のガンボート(砲艦)である。河川警備専用のため喫水が浅く、排水量は六百二十五トンに過ぎない。

 慶齢は子文が指さした軍艦を厳しいまなざしでみた。一年前、長江上流の万(ワン)県(現四川省万州区)でイギリス船舶と軍閥の楊森(ヤンセン)との間で小さな衝突があり、イギリス海軍が万県を砲撃し、イギリス側数十名に対し、中国側に数百名の死傷者がでるという事件が発生した。いわゆる〝万県事件〟である。その砲撃を担ったのがコックチェイファーだ。

「小さいねぇ。まさにコックチェイファー(フキコガネ虫)の名が相応しいね」

と、子文はからかうようないいかたをした。イギリス海軍は河川警備専用のガンボートをインセクト・サイズと分類し、グローウォーム(ホタル)、モス(蛾)、タランチュラ(毒ぐも)といった昆虫の名をつけている。

「虫の名のついた船に乗って乗員は気分が悪くないのかなあ。イギリス人の考えることは全くよくわからないよ」

全文は
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と子文は笑ったが、慶齢はガンボートを睨んだままである。

 後方よりエンジン音が聞こえてきた。

 振り返ると、複葉の飛行機が長江のうえを水平に飛び、近づいてくる。

「みて。青天白日よ」

と、慶齢が叫んだ。太陽が十二の光芒を放つ姿が深紅のリングのうえに配された国民党党旗の〝青天白日満地紅〟が機体に描かれている。

「ボロジンがソ連から持ちこんだ飛行機だよ。複座複葉の軽爆機だ」

と、子文は落ち着いて講釈したが、慶齢は嬉しそうな表情で真上を飛び越してゆく機体をみつめている。

 軽爆機がイギリス軍艦のすぐうえを、かすめるようにして通り過ぎた。明らかに挑発的な飛びかただ。そして高度をあげつつ旋回し戻ってきて、今度は埠頭の群衆のうえを翼を振りながら飛んだ。

 埠頭の群衆から大きな歓声があがる。

 慶齢は飛び去ってゆく軽爆機に向かって手を振りながら、

「私たちの到着に華を添えるつもりなのよ。蒋介石もいいところがあるじゃない」

と笑った。

 子文は、軍事力を武漢の住民にみせつけんとする示威飛行だと思ったが、それは口にはださす、無邪気に微笑む慶齢の横顔をみつめていた。

 宋子文は一八九四年、上海で生まれた。

 宋子文というひとについて述べるためには、その父、宋嘉樹(ソンジアシュ)について触れなくてはならない。

 子文の祖父は海南島の出身で、当時のほとんどの中国人と同じように、ごく狭い土地を有するだけの貧しい農民だった。姓は韓である。その子の嘉樹は子のなかった親戚の宋家に養子にだされた。養父はボストンで茶販売店を営んでおり、嘉樹は十歳前後でアメリカに渡る。ボストンでしばらく養父の店を手伝ったが、やがて学校にいきたいと思うようになり、養父にそれを反対されたことから家をでる。苦労して大学に進み神学を学び、卒業後、伝道師として中国に送られることとなった。上海とその周辺で布教活動や英語の教師をしたのち、聖書の出版事業を始め、製粉業や外国貿易などにビジネスを拡大、成功し大きな財を成すに至る。

 青年期をアメリカで過ごし中国の封建的な伝統に染まらなかった宋嘉樹は、子供たちを性で区別せず、娘たちにも男子と同様の教育を授けることとし、六人の子全員をアメリカへ留学させた。子文の妹の美齢は、満十歳のときに姉の慶齢の留学にあわせて出国し十年にわたってアメリカに住み教育を受けるが、彼女が生涯にわたってアメリカに極めて近かったのはそのためである。一九三〇年代、日本に融和的な態度をとり続けていた蒋介石が日本と対立する姿勢に転じアメリカの支援のもとで徹底抗戦をおこなうに至ることには、その妻、美齢の影響が小さくなく、宋嘉樹の生い立ちが日本の命運に少なからず影響を及ぼしたということもできる。また、嘉樹は強い愛国心をもっていた。当時のアメリカでは大陸横断鉄道建設や鉱山採掘などのために中国人が多数用いられていたが、彼らは多くの職業から締めだされ、ときに暴行を受けるなど甚だしい差別を受けていた。一八八二年には中国人移民排斥法が可決されている。宋嘉樹もそうした社会の風潮と無縁ではいられず、自分は中国人であると強く意識し、深い愛国心を抱くようになった。さらに、長く中国をそとからみていたため、その社会体制や伝統的習慣などの問題点を感じ、愛する祖国を変革しなくてはならないと思うに至る。こうした嘉樹の意志は、少なくとも慶齢と子文に濃厚に引き継がれることになる。

全文は
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 子文は一九一二年、ハーバード大学へ留学した。渡米時の年齢は十七である。長女靄齢と二女慶齢が十四歳、三女美齢が十歳なので、それらに比べれば遅い渡米だった。経済学修士を取得したのちニューヨークに移り、ウォール街の銀行に勤めて国際為替業務などを経験すると同時に、コロンビア大学に学び経済学博士を取得する。一九一七年に帰国し、鉄鋼企業で財務を担当したり商業銀行に勤務したりしたのち、孫文夫人である慶齢の推薦により、一九二三年に広州にはいり孫文革命に参加した。

 子文はまず大本営秘書に任じられ、十月には塩務稽核処(塩事業の監督部署)経理の任に就く一方で、紙幣発券銀行である中央銀行開設の重責を託された。中央銀行は一九二四年八月に開業し、孫文は子文をその総裁に任命した。つまり子文は、満年齢でいえば三十にも達しておらず、政府内での実績は一年にも満たないときに大臣クラスの要職に就いたのだった。この大抜擢は、この政府にいかに人材が不足していたかをものがたるものだが、このころの中国の通貨制度注は無秩序といっていい状態にあり、新政権の統治を確立し中国全土の統一を成し遂げるためには金融の改革が急務であって、若手の登用により軋轢が生じようとも構ってはいられなかったのだろう。

 子文は、中央銀行および中央銀行券の信用力維持に心血を注いだ。のちに国民政府は武漢、上海にも中央銀行を設立し、いずれも財政需要を賄うために紙幣を乱発し、インフレーションを引き起こしてしまうのだが、広州の中央銀行については、少なくとも北伐開始までの期間においては発行準備の充実がはかられ、政府への貸付においても担保を要求するなど、よく秩序が保たれた。一九二五年八月に財政部長である廖仲_(リャオジョンカイ)が暗殺され、そのため広州市内に戒厳体制が敷かれ、市民の動揺が金融にも波及し、中央銀行券の現銀への兌換を求める市民が中央銀行店頭に殺到する騒ぎが発生したが、このとき子文は、中国銀行香港支店から現銀を借り入れ支払い準備を充足させたうえで、各店の営業時間を二時間延長して兌換に応じさせた。この措置により取りつけ騒ぎはすぐに収束し、中央銀行は信用力を一層高めることとなった。中央銀行発行紙幣は信用力が高く、国民政府支配地域のそとでも一部流通し、他の銀行券に対して一%を超えるプレミアムがつけられ使用された。

 一九二五年、末期の肝臓癌で最後のときを迎えつつあった孫文は「現在革命尚未成功(現在のところ革命はなお未だ成功していない)」という文言で有名な遺言、〝総理遺嘱〟を遺すが、子文はその証人のうちのひとりとなった。二月二十四日、子文、汪兆銘、孫科(ソンクー)、孔祥煕※の四人が孫文の病室にはいり、汪兆銘が孫文の遺言を代筆した。孫文が内容に了承し署名しようとしたとき、病室のそとで次第を聞いていた慶齢が泣きだしてしまったため、孫文は「いまはまだよかろう」といってペンを置いた。総理遺嘱が孫文により署名されるのは死去の前日の三月十一日である。子文は孫文の義弟であり、孫科は孫文の実子、孔祥煕は慶齢の姉、靄齢の夫である。つまり二月二十四日の総理遺嘱起草の場に立ち会ったのは、汪兆銘以外はいずれも孫文と姻戚関係者であり、子文は孫文の姻族であるがために総理遺嘱に関わる重要な場にいあわせることになったのだが、これにより党の内外から国民党の重要人物とみなされるようになった。

 同年七月に子文は広東省の商務庁長に任じられ、暗殺された廖仲_を継いで九月に国民政府財政部長に就いた。中央銀行総裁をも兼ねる子文は広州革命政権の経済行政を一手に担ったといっていい。

 各種税や塩専売事業等について、法令を整備し、管理徴税機構を整理し、不正撲滅を押し進めるなど大胆な施策を次々と繰りだした。軍事費関連の改革にも着手し、各軍に対して、予算制度の確立、資金の留保の禁止、資金管理の厳格化などを求めた。

 この時期、翌年に始まる北伐の準備が進められており、軍事費が急速に拡大していた。一九二五年十月からの一年間についていえば歳出の実に約四分の三が軍事費である。この急増には税収や塩事業収入の増加だけでは到底追いつけない。中央銀行による紙幣増発により賄うという道もあったが、子文は公債発行によって資金を調達することとした。とはいえ数千万元の巨額となれば公債の消化は容易ではなく、苦肉の策として、くじつき公債を発行することとし、軍、政府、教育機関の人員に対し三か月間にわたって給与の三十%をくじつき公債で支給するといった公債消化策を実施した。

 北伐は子文によって賄われたのであり、彼がいなければ、国民政府による中国全土の統一はなかったか、大幅に遅れたはずである。

 子文の辣腕により財政状況は一気に改善する。歳入は子文の財政部長就任前後で十二倍以上にもなった。この数字には公債発行や税外収入による金額が含まれているが、それらを除いても約八倍である。子文が財政部長就任時の施政方針演説で財政再建の目標を示したとき、香港の新聞はその目標を無謀であるとして一斉にあざける記事を掲載したが、それから半年もしないうちに各紙は「宋子文は口にしたことばを違えない信頼できる男である」と称えたのだった。

 子文は短期に驚くばかりの結果を残したが、この成果を、この政権が樹立されてから日が浅く、ほぼなにもないところから始められたがゆえに得られたものと片づけてしまうべきではない。孫文が政権を掌握した一九二三年初から子文が財政部長に就くまでの二年半の間に五人の財政部長が入れ替わり就任したが、誰ひとりとしてこれほどの業績を残すことはできなかった。子文のみが多くを成し得たのは、アメリカで学んだ経済についての広い知識と深い理解や、ニューヨークおよび上海に戻ってから広州にはいるまでの期間で得た金融・実業界での経験に加えて、孫文の臨終に立ち会ったために党内での序列が最高位に近いところにまで高まり各方面での軋轢を顧みずに諸改革を実施する力を得ていたことや、若いがゆえの柔軟な発想力と大胆な行動力があったこと、そしてなにより、改革実現への強い意志を有していたことによるのだろう。

 小島譲次※は、武漢三鎮のひとつ、漢口(ハンコウ)の長江沿いの道を歩いている。この道は各国の租界を貫いており、いま歩いているのはドイツ租界で、前方の交差点を越えればフランス租界にはいる。

 小島は聯盟(れんめい)通信社の北京駐在記者である。武漢や九江、南昌等が国民革命軍に占領され、国民党幹部が武漢にはいったと聞き、その状況を取材しようと思いたったのだ。本社には、まだ混乱状態にあるようだからやめておけといわれたが、小島は耳を貸さずに北京と漢口とを結ぶ京漢鉄道に乗った。

 荒野を走る二泊三日の退屈な汽車旅ののちにたどり着いた武漢は、労働運動と反帝国主義、特に反英の気勢に覆われていた。街を歩いて目についたのは労働条件改善等を掲げたビラと、街のあちらこちらをわがもの顔で練り歩くデモ行進、各所で大声を張りあげる街頭演説、そして、それらに対抗して要所要所に配備された各国の陸戦隊員と、市民を威圧するように長江上に浮かぶ数十隻の小型の軍艦だった。この街がこういう状況にあることは事前に新聞報道や漢口領事館からの情報で知ってはいたが、一触即発ともいえる緊張状態にあるとは思わなかった。

 小島はフランス租界もぬけてロシア租界にはいり、ロシア領事館の前を過ぎてすぐの交差点で立ち止まった。

 角にクリーム色の外壁の小ぶりな洋館が建っており、小島はそれを軽く見上げて笑った。

(これが財政部の新庁舎というわけか。彼らしい、というべきかな)

 小島は、その出張った肩をぶつけずには通り抜けられないかと思えるほどに小さなドアから建物にはいり、受付の女性秘書に自分の名を告げると、秘書は、突然の訪問者に不審の目を向けながらも小島を二階に案内した。

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