『上海ノース・ステーション』立ち読み
本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。 全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。 単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。
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「ああ、そうだ」
「それはわれわれのグループによる宋子文襲撃だ。そうか。重光は一緒に殺されなかったか。それはよかった」
克治が微かに安堵の顔をみせた。
「宋子文の襲撃と代理公使の襲撃とが重なったのは単なる偶然か。それとも仕組まれたものなのか」
「重光暗殺者は宋子文暗殺に乗じてことをなそうとしたのだろう」
「なぜ二つの暗殺を同時にやらねばならんのだ」
「その理由は昨夜きみ自身が話していたじゃないか」
「重光代理公使暗殺を中国人によるものとするためか」
「推測だがな」
「そうすれば日本の国内世論は激高し、国際世論も日本に味方する」
「そうだ。そして日本は上海へ兵を送る」
「まさか──」
小島はそうつぶやいたが、十分にあり得ることだ。
「昨夜きみと話していてそのことに気づいた。宋子文暗殺を中止させなければならないと思った。しかしあの時間からでは上海の実行部隊に連絡する術はなかった。だから私は昨夜の南京発上海行きの夜行に乗った。そして上海北站で列車が停車する前に飛び降りて駅舎に向かった」
「ああ、そういえばひとり飛び降りたのをみた。あれはきみだったか」
「駅舎の手前の柱の陰に朱偉がいるのをみかけ、重光襲撃を思いとどまるように説得した。しかし駅で重光を狙っていたのは朱偉だけではなかった。許清。あいつに殴られて気を失った」
克治は首筋のうしろを手でさすった。
「じゃあきみはそのまま僕があそこに現れるまで倒れていて、銃撃戦には参加しなかったということか」
「そうだ。私は止めようと思っていたのだぞ。私がやられていなければ宋子文襲撃はなかっただろう。目が覚めたときは駅舎のなかでの銃撃戦の真っ最中だった。銃撃戦が止んで、あの場を離れねばとは思ったが、殴られた頭でフラフラしながら現場を通過すれば実行犯と疑われかねないのでそのままじっとしていた。ようやく頭がはっきりしてきて、逃げねばと思い立ち上がったところにきみが現れた」
「きみの舎弟はどうした」
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
「わからない。私が目を覚ましたときにはもういなかった」
「つまりは唐腴臚を撃ったのはきみの舎弟かもしれない」
「唐腴臚?」
「宋子文の秘書だ。体型も似ている重光代理公使に間違えられて撃たれたのだろう」
「ちょっと待て。私はずっとそとにいて駅舎のなかでなにが起こったか知らない。宋子文はどうなった」
「無事だ。駅舎のなかで倒れていたのは唐腴臚だ」
「そうなのか──」克治は項垂(うなだ)れ、「それは申し訳ないことをした」と、垂れた首のままでつぶやいた。
「しかし、宋子文の暗殺と同時に代理公使を暗殺しなければならないのだったら、なぜ宋子文が無傷なんだ。宋子文を襲撃する最初の銃弾が撃たれたあとに代理公使を撃つ弾が発射されそうなものだが」
「それはわからない。ただ──」
克治は一瞬区切った。
「ただ、なんだ」
「廬山で蒋介石暗殺に失敗したとき、失敗の理由は、緊張した朱偉が指示に従わずに早く弾を撃ってしまったためだった。それと同じことが起こったのかもしれない。宋子文が撃たれたあとに撃つはずの朱偉が最初の銃弾を重光だと思って唐腴臚に向けて撃ってしまったのかもしれない」
「そうか──」
小島は口を噤んだ。
克治もことばを継がなかった。
運転手が訊いた。
「小島先生。どちらにいけばよろしいでしょうか」
小島は「うん」と、小さく喉をならして窓のそとへ目を移した。車は蘇州河にかかる橋を越えようとしている。この先は旧英国租界である。
小島は「社へいってくれ」と短く答えた。
小島は、唐腴臚が重光に間違えて撃たれたと知った克治が首を項垂れて「それは申し訳ないことをした」とつぶやいた姿を思いだしていた。あのことばがなければ克治を許す気にはなれなかっただろう。
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小島は克治を聯盟通信社の事務所に連れていったのち、すぐに外灘(ワイタン)にある海関(ハイグアン)総税務司署(現上海海関大楼)に向かった。
応接室にはいっていくと、すでに上海市長の張群(ジャンジュン)らがきており、少し遅れて重光も駆けつけてきた。子文の姿はない。
小島が上海北站での事件の顛末を語っていると、ほどなくして焦燥しきった表情の子文が現れた。
応接室で待っていた人々はみな、子文も事件のことを話すものと思っていた。しかし、悲しげにゆっくりと一同をみまわしてからようやく発せられた子文のことばは、全く予想外のものだった。左手には一枚の紙が握りしめられている。
「いま青島から電報を受け取りました。母が、母が亡くなったとのことです──」
一同はことばを失った。悪魔にとりつかれたかのような偶然に、口を開ける者はいなかった。
しばらくの沈黙のあと、口を開いたのは再び子文だった。子文はソファに腰を掛け、急遽上海に戻ることになった理由から最初の銃声がしたときまでを訥々(とつとつ)と語った。激しい銃撃戦になってからの状況はごく簡単にしか述べなかったが、小島がすでに話したと思ったのだろう。
そして立ち上がって、
「みなさん。わざわざお越しいただいたのに申し訳ないのですが、これから唐腴臚のいる病院にいかねばなりません」
といった。眼球のまわりが赤く染まっている。
重光がロー・テーブルに置かれた子文の母の死を伝える電報を左手に持ち立ち上がり、右手で子文の上腕を握った。
「母上が身代わりになって命を救ってくれたのですよ。母上は、自分の息子は中国の将来のためになおも働き続けなければならないことをよく知っておられたのです。天も中国のためにあなたを生かさなくてはならないと考えたのでしょう。辛いでしょうけれども、なんとしてもこの苦難を乗り越えて、中国のために大きな仕事をしなくてはなりません。それが母上に対する最大の孝養でしょう」
それを聞き子文は、
「おっしゃるとおりですね。そう考えることにします」
と、僅かながらも笑みを浮かべて答えた。
*
一九三一年七月二十四日の新聞が前日朝の上海北站での事件について報じたとき、世間は財政部長が間一髪で殺されかけたという重大ニュースに一斉に驚かされたが、田中隆吉に如く驚きを受けたものはおそらくいない。
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