『上海ノース・ステーション』立ち読み
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と、きっぱりといった。
王正廷のことばを額面通りに受け取ることはできない。しかし英米との交渉が妥結に向けて順調に進捗しているのは本当なのだろう。英米との交渉が妥結してしまえば日本もそれに追従するしかなくなる。いずれにしても不平等条約撤廃をおこなわなければならないのだから、日本は多少のことには目をつむってでも他国に先んじて交渉妥結をするべきなのだ。
「私は帰朝するたびに政府内で、わが国が率先して不平等条約撤廃に動くべき、と強く訴えています。ただ、貴国においてわが国に対する強硬的意見が高まるのと並行して、わが国においても強硬的な意見が主流になりつつあります。昨今は、幣原と重光の外交は軟弱である、と攻撃する声が強まっています。だからいま、諸利権の返還を一気におこなうことは非常に難しい。そのことはぜひご理解いただきたい」
そう重光はよどみなくいい、王正廷は黙ってうなずいた。おそらく両者の会見のたびに重光が繰り返しいっていることばなのだろう。王正廷も十分に理解しているのだ。
ふたりの会話が途絶え、そのままふたりは黙りこくった。
傍らに立つ小島は天を見上げた。
強い太陽光が降り注いでいる。
(暑い夏がくる)
小島はそう思いながら手のひらを翳し、瞳を刺す太陽光を遮った。
上海フランス租界のラファイエット路(現復興中路)に面した洋館の客間で、燕克治は王亜樵とともにふたりの客と相対している。
客の名は蕭佛成(シアオフォーチェン)と馬超俊(マーチャオジュン)。いずれも蒋介石の胡漢民(フーハンミン)軟禁のあと南京の国民政府を離脱し、孫文の子の孫科(スンクー)らにより建てられた広州国民政府に合流している。ふたりは蒋介石暗殺の経過報告を聞きにきたのである。
王亜樵は、蒋介石が南京ではいかに厳重に警備されているかということをくどくどと説明し、南京での襲撃は不可能であり襲撃場所を廬山に移さざるを得なかった、と多少いいわけがましくいった。そのうえであらかじめ克治から聞いた話をもとに廬山での首尾について概略を述べた。
王亜樵の声は控えめだった。
この場の四人の満年齢は克治が二十八、王亜樵が四十二、蕭佛成は六十九、馬超俊が四十四である。誰と相対しても臆することのない王亜樵だが、蕭佛成については二回り以上も年長であり敬意を示さざるを得ず、そのうえ相手は王亜樵にとっての大スポンサーである。仕事を打ち切られることを恐れ、それどころか、失敗したのだからと返金を求められるかもしれないという不安もあって、暗殺団の大頭目にはおよそ似つかわしくない諂った態度にならざるを得なかったのだ。
王亜樵は廬山での概略を述べたのち、詳細の説明は克治に譲った。
克治の話を目をつむり黙って聞いていた蕭佛成が、話が終わるのを待ってゆっくりとまぶたを開いた。
「殺害の機会は十分にあったにも関わらず、きみらの不手際が原因で失敗したということじゃな」
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口調は柔らかいが強い目線で王亜樵を見据えている。
王亜樵は目を逸らし克治の顔をみた。克治が答えざるを得ない。
「はい。そうです。われわれ実行部隊の不手際です。計画どおりにやっていれば成功していたのではないかと思われます」
そういったあと克治は詰問のことばを受けるものと思い身構えたが、蕭佛成は腕組みをして再び目をつむってしまった。
かわりに馬超俊が口を開いた。
「蒋の警備は今後相当に厳重になるでしょうな」
克治はうなずいた。
「はい。廬山に滞在するときでも南京にいるときと同様にほとんど大衆の面前には姿を現さなくなると思われます」
「では、どうしますか」
「しばらくは様子をみざるを得ないでしょう──」
そう克治がいうと、それを遮るように王亜樵がいった。
「いや、機会はあるはずです。多少の困難はあっても草頭(ザオトウ)(盗賊団の頭目)の蒋を殺さねばなりません」
馬超俊は「うむ」と唸り、腕組みをして目をつむったままの蕭佛成の耳元になにかをいった。蕭佛成はそのままの姿勢でしばらく考えていたが、やがて黙って首を縦に振った。
それをみて馬超俊がいった。
「蒋を狙うのは当面みあわせたほうがよさそうですね。警備が厳重になり、蒋がもはや公の場所にでてこなくなるというのではどうにもなりますまい」
「いや、しかし──」王亜樵はやや慌てていった。「いま新たな方法を探っているところです。次こそは蒋の首をあげてご覧にいれましょう」
「そんなに焦らなくてもいいです。仕事を打ち切ろうというのではありませんから」
「とおっしゃいますと」
「仕事は続けてもらいましょう。ただ、殺害する相手を変更します」
「変更?いったい誰を狙うのです」
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「宋子文」
「宋子文?」
王亜樵は訊き返した。克治も馬超俊の意図がわからず、首をひねった。
宋子文財政部長。財政部長といえばむろん要職ではあるけれども、国家の進路を左右するほどの立場ではないはずだ。宋子文は蒋介石夫人宋美齢※の兄であり、すなわち蒋介石の義兄となるが、だからといって蒋介石の罪を肩代わりさせる理屈にはならない。宋子文を殺害したところで蒋介石の反革命的な行動が改まるはずもない。
そう考えた克治が訊いた。
「なぜ宋子文なのでしょうか。宋子文が広州と対立しているという話は聞いたことはありませんが、私の認識違いでしょうか」
王亜樵が「おまえが口をはさむな」と小声でいって克治を睨んだ。
克治は構わずに続けた。
「宋子文はただの経済官僚ではないですか。ただの経済官僚を殺害する目的がわかりかねます。まさか税警団をもっているからではないですよね」
税警団は宋子文が塩の密売取締を目的として創設した武装組織である。装備が充実し士気も高い精鋭で、実質的な軍隊であった。このときから約半年後の上海事変の際には、宋子文は税警団を上海防衛の部隊として戦場に送りだしている。
蕭佛成が答えた。
「確かに宋子文は経済官僚じゃが、蒋介石を支えているのは宋子文じゃ。蒋介石は軍を握っているから絶大な力をもっている。その軍は宋子文によって養われている。蒋介石は猛然と突き進む蒸気機関車じゃが、石炭がなければ走ることはできない」
「しかし宋子文を殺しても、ほかの経済官僚が宋子文に代わって同じ役割を担うだけではありませんか」
「宋子文のやっていることは誰にでもできることではない。いや、宋子文にしかできないといっていい。彼は浙江財閥注のなかに広い人脈をもち、かつ絶大な信用を得ている。国債を引き受ける者はみな国債の券面に彼のサインがあることを確認する。それがなければ国債など紙切れ同然じゃ。彼がいなければ蒋介石は一日たりとも玉座に座っていることはできんのじゃよ」
「そうですか──」
と、克治はいったが納得してはいない。蒋介石は孫文の教えに叛(そむ)いて約法の制定を強行したり、上海の労働者の大量虐殺や胡漢民(フーハンミン)の幽閉など非道な行為を繰り返している。ゆえに抹殺されなくてはならない。他方で宋子文は官僚として与えられた職務をこなしているだけなのではないか。そんな宋子文を殺害するというのは、無垢な労働者を殺すのと同じく非道なことなのではないか。
しかし隣に座る王亜樵は、
「わかりました。では襲撃対象を宋子文に変更しましょう」
といって、自分の胸を叩いた。宋子文ならば暗殺に成功する可能性は蒋介石を狙う場合に比べて格段に高く、宋子文を暗殺すれば蒋介石暗殺のために前金でもらったカネを返さないで済むのであればありがたい、と考えて胸を撫で下ろしたのだろう。
「しかし──」
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