『上海ノース・ステーション』立ち読み
本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。 全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。 単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。
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克治は異を唱えようとして口を開いたが、王亜樵は克治に向かって手のひらをみせ、発言を制した。そして口元を歪めた笑みを浮かべていった。
「ただ、蒋介石暗殺のために事前にいただいた資金はほぼ使い果たしてしまいました。宋子文をやるためには追加の軍資金をお願いしたいのですが」
克治は呆れて王亜樵の横顔をみた。つい先ほどまで資金の返金を求められないようにと諂っていた男のことばとは思えなかった。蕭佛成の身体は吹けば飛びそうなほどに痩せこけている。それをみているうちに吹っ掛けてみたくなったのか。
蕭佛成と馬超俊は額を寄せて小声で二言、三言を交わした。なにをいっているかは聞こえないが、馬超俊の険しい表情からは、馬超俊が追加の支払いに反対し、蕭佛成がそれをなだめていることが察せられた。
蕭佛成が王亜樵に向きなおっていった。
「いいじゃろう。追加で四万元払おうじゃないか。ただし期限を切らせてもらう。一か月。一か月以内に必ず実行するんじゃ」
王亜樵は大きくうなずいてから「お任せください」といって、声をだして笑った。
小島譲次は上海アスター・ハウス(浦江飯店)で開かれている結婚披露宴に出席している。
新郎の名は唐腴臚(タンユールー)。小島のハーバード留学時代の学友である宋子文の私設秘書である。唐腴臚もハーバード卒であり、卒業後すぐに子文に呼ばれてそのもとで働き始めた。
小島はビュッフェ・テーブルの前で料理を選ぶ重光葵代理公使の姿をみつけ声を掛けた。
「しばらく公使館のテニス・コートに呼びだされておりませんが、暑さにやられましたか」
「いや、暑さもあるが、ちょっとこのところ忙しくてね」
「万宝山問題注ですか?」
「うむ」
重光は曇った顔でうなずいた。万宝山問題とは、吉林省長春に近い万宝山で起きた現地中国人農民と朝鮮人入植者との衝突事件のことである。
「朝鮮ではひどいことになっているようですね。襲撃された平壌在住華人の死者は相当の数になっているとか」
「ちょうど昨日、中国政府からの抗議に対する本邦の回答文書を王正廷外交部長に手渡したのだが、その回答文書には平壌他で死者百名、負傷者百二十名とあった。おそらくは少なめに書いているだろうから、実際の死傷者は数百人では済まないだろう」
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
「しかしどうやら七月二日に万宝山で数百人の朝鮮人が殺されたという記事は誤報のようじゃないですか。ひとりも死んでいないという話もあるし、用水路も結局は完成したと聞きました。それにも関わらず報復がなされ死傷者が数百人だなんて」
「仲の悪い夫婦は夫や妻の箸の上げ下ろしにも腹が立つようになる。それと同じだよ。もはや日支の間で起こるいかなる事件も大きな問題に発展するようになってしまっている。危険な状態だ」
重光は深くため息をついた。
「一昨日、あらたな火種になるかもしれない情報を耳にしましたが、ご存知でしょうか」
「なんだね」
「一昨日の夜、満洲取材から戻ったアメリカ人記者と食事をしたのですが、チチハルで蒙古人たちの間で噂になっている話を聞いたというのです。その噂によれば、蒙古地方に入ろうとした日本の軍人が張学良配下の兵に捕まり殺された、と」
「なんだって」
と、重光は周囲が振り返るほどの驚きの声をだした。
「それで昨日、関東軍注の参謀部の知り合いに問い合わせたのです。そういう事実はあるのか、と。彼はそんな話は全く聞いていないと笑っていたのですが、今日になって彼のほうから連絡があり、調べてみたところ調査旅行で蒙古地方にはいった大尉が帰着予定を七日過ぎても戻らず連絡も途絶えているようなので、そのアメリカ人記者の話というのをもう少し詳しく聞きたい、といってきたのです」
「その噂が事実なら一大事だ。関東軍はそれを理由にして部隊を動かすかもしれん」
重光の声が大きい。小島は自分の唇にひとさし指を当てて重光に声を抑えるよう促した。
声量を落として重光が続けた。
「その問題の解決を関東軍に任せたら戦争になりかねない。なんとしても外交交渉で解決しなければならん──」
重光は顎に手を当て一瞬考えてから、
「日本国民にへたな伝わり方をするとまずい。国民が激高すれば関東軍が動く」
「私のほうはだいじょうぶですよ。いずれにしても記事にするにはまだ情報が少なすぎる」
小島が小声でそういったとき、後方から肩を叩くものがあった。
「なんの密談だい」
振り返ると宋子文であった。
「いや、密談ということはないが──」
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と、小島はやや口ごもったが、重光はすぐに笑顔に切り替えて子文の手を握った。
「代理公使、昨日の外交部長宛の公文は拝見しました。あの文書は貴国の誠意を感じるものではありましたが、代理公使は口頭でわがほう官憲による朝鮮人圧迫が原因であると説かれた、と聞きました」
「本省からの訓令でそう口頭で伝えるよう命じられましてね」
「そうだろうと思って先ほど私のコメントを南京に送っておきました。『おそらく日本政府内では、代理公使が口頭で述べた内容を文書に盛り込めという意見があったに違いない。それがこの文面でまとまったことは評価できるのではないか』と」
「それはありがたい」
重光は小さく頭を下げた。
「ところでTV──」と、小島が話題を変えた。子文はアメリカ時代、自らの姓名をSoong Tse-Venと綴っていた。TVはその名の頭文字をとったもので、留学時代、彼の友人たちはみなそう呼んでいた。「僕はきみとのつながりでこの式に招待してもらったが、新郎のことはきみの秘書であるということ以外になにも知らない。どういう人なんだい」
「彼は僕のところにきてまだ一か月ほどだからきみが知らないのも無理はないな。ハーバードの後輩だよ。すなわちきみの後輩でもある。一をいえば九を補い十の仕事をする優秀な男だよ。年は三十一で三十六の僕とは五歳しか違わないせいもあって部下というよりも弟のような感じだな」
子文はそういって、いかにも愛してやまないというように目を細め、新婦とともにフロアを挨拶してまわる新郎に目を向けた。
「おいおい。恋人をみるような目だな。唐腴臚を新婦にとられるので嫉妬しているんじゃないか」
子文は「アハハ」と笑い、
「新婚なんだから何日か休んで旅行にでもいってきたらどうかと勧めたんだがね。『忙しくてとても休んではいられない』のだそうだ。彼が僕のところにきてからというもの朝から晩まで顔を突き合わせていて多少うんざりしてきたんだが、明日からもそれは続くよ」
「彼が忙しい分、きみのほうは少しは楽になったかな」
「そうだな。少なくとも毎晩家には帰れるようになったよ」
子文はそういいながら新郎のほうへ手を上げた。
それに気づいて唐腴臚は他の招待客との会話を打ち切り、新婦とともに小島たちのそばにきた。唐腴臚は小柄で、ちょうど重光と背丈も体格もほとんど同じである。身長百八十センチの小島とほぼ同身長の子文とはずいぶんと身長差があるが、そのためか嬉しそうに唐腴臚を小島たちに紹介する子文の姿は、できのいい息子を紹介する父親のようにみえた。
唐腴臚の傍らに寄り添う新婦は純白のウエディング・ドレスをまとい、幸せそうな笑みを浮かべている。小島が子文の胸を指さして、「この男が唐先生を独占しないよう、僕からよくいい聞かせておきます」というと、新婦は小さな唇を開き、「ありがとうございます。でも私はだいじょうぶです」と、まばゆい白い歯をみせた。
子文と新郎新婦が離れたあと、小島と重光は再び小声で話し始めた。
「一昨日、田中大尉と飲んだのですが、そのとき彼が物騒なことをいっていましたよ。『軟弱な幣原外交の手先である重光は許すわけにはいかない』などと吠えていました」
田中大尉とは昨年秋に公使館付武官補佐官として上海に赴任した田中隆吉(りゅうきち)のことである。のちの東京裁判において連合国検察側証人として日本陸軍の内部事情を暴露し、被告であるかつての上官たちに数々の不利な証言をして物議を醸す人物である。
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