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『上海ノース・ステーション』立ち読み

本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。

全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。

単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。

全文は
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「まずは聞こう。カネを払うかどうかはおれが決める」

 なにか反論するかと思ったが、許清は一瞬黙ったのち、口を開いた。しゃべりたいのだろう。阿片で気持ちが大きくなっているためなのかもしれないが、話さずにはおられないほどに大きな情報なのかもしれない。

「王亜樵は広州国民政府の依頼を受けて蒋介石を殺そうとしています。先月、王亜樵の配下が廬山で蒋介石を狙いました」

 田中は驚き目を瞠ったが、許清は無表情に続けた。話のポイントはさらに先のようだ。

「しかし蒋介石は無事でした。王亜樵の配下は蒋介石に向けて銃を撃ちましたが失敗しました。王亜樵のほうはひとりが衛兵に撃たれて捕まり、他は諦めて逃げました」

 許清はそこで間を置いた。呼吸が苦しくて一度に長くは話せないというふうである。田中はうなずくこともなく許清の目を見据えて続きを待った。

「その結果、蒋介石の周りの警備が非常に厳しくなりました。もはや襲撃することは不可能になりました。いまはネズミ一匹でも近づくことはできません」

 許清が再び間を置く。田中は焦(じ)れて舌打ちをした。息苦しくて話を区切っているのではなく、勿体ぶっているのか。許清の頭のなかでは、間を置くたびに情報料を示すメーターの針が上がっているのかもしれない。

「王亜樵の雇い主は蒋介石暗殺を諦めました。王亜樵はまだやれると食い下がったようですが、雇い主は考えを変えました」

「どう変えた」

「殺す相手を変えたんですよ」

「誰を殺す」

 いらだつ田中は急かすように訊いた。

「宋子文です」

「財政部長の?」

「そうです。広州の国民政府は王亜樵に宋子文を殺すように頼みました」

「宋子文?なぜ財政部長を殺す」

「えぇと、それは──」

 田中は許清のことばを遮って自分で答えをいった。

「宋子文は蒋介石の銭函だ。銭函を奪って蒋介石を弱体化させようということか。そうだろう」

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 許清は田中の問いには答えずに、「いくら払いますか」といった。

「宋子文の襲撃はどこでやるんだ」

「上海北站(ベイジャン)です。宋子文は、国民政府のある南京と金融関係者がいて彼自身の自宅もある上海とのあいだをいったりきたりしなくてはならないので、週に一度は南京と上海の間を往復します。上海で列車から降りてきたところを襲う計画のようです」

(このネタをなにかに使えないだろうか)

 田中は目をつむり腕組みをして考え始めた。確かにこれは重大情報だ。それに蒋介石暗殺とは違い対象が宋子文ということであれば成功する可能性は高い。日本の利益のためにこの情報を使えないものか。

 許清は黙っている田中をみて、再び寝台に横たわり少女からパイプを受け取った。

 田中はつむっていた目を開けた。阿片の香りのする暗い部屋のなかで目を閉じていると思考が鈍るような気がしたのだ。壁には男女がまぐわう淫靡な絵が掛けられている。田中はそれをぼんやりとみながらさらに思考した。

 のちのことになるが、田中は七ヶ月後に第一次上海事変のきっかけとなる日本人僧侶襲撃事件を引き起こし、その後も度々謀略を企てる。田中は、謀略こそが軍における自分の存在の意味だと考えており、謀略を実行し成功させること以上にそれを考案することが好きであった。その考える謀略は複雑になる傾向にあった。謀(はかりごと)はすべからず複雑であるべきである、複雑であればあるほど成功の可能性が高くなる、田中はそう信じていた。

 田中は上海北站と聞いて、ひとつの光景を思い浮かべた。つい先日、宋子文と重光葵代理公使とが南京から上海に着いた列車から連れ立って降りてきたのをみかけたのだ。田中は中国に対して宥和的である重光葵代理公使を亡き者にしたいと考えている。その殺害を宋子文暗殺者にやらせることはできないか、と考えてみた。襲撃が宋子文と重光とが一緒にいる場でおこなわれれば、重光を倒すことができるかもしれない。

 そこまで考えて、田中は「う〜ん」と唸り、眉間に皺を寄せた。重光のいる場所で宋子文が襲撃された場合、重光に流れ弾が当たるかもしれないが、そうでない可能性のほうが高いだろう。死ぬ可能性は相当に低い。重光が死なねば意味がない。

(襲撃が駅でおこなわれるのならば、そこに重光を襲う別の刺客を忍ばせておくか)

 そうすれば重光を殺すことができ、その罪を王亜樵一味に負わせることができるだろう。

 ただひとつ解決せねばならない問題がある。上海北站で宋子文が襲われるときに、いかにして重光もその場にいるように仕組むか。重光も宋子文と同じく上海に家があり、また上海、南京双方で仕事があるので上海、南京間を常に往復している。外交部との折衝は頻繁におこなわれるのでおそらく重光も週に一度程度往復している。しかし、どうやってふたりの移動のタイミングをぴたりと合わせるか。

「宋子文襲撃の日時は決まっているのか」

「それは聞いていません。でもおそらく決まっていないでしょう。宋子文がいつ汽車に乗るかは何日も前には決まっていないでしょうから」

 田中は再び「う〜ん」と唸って考えた。

 許清が、「いくらだしていただけますか」と再び訊いた。

「いい情報じゃないか」

と田中はいった。

「それで、いくらで」

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「いくら欲しい」

 許清はひとさし指と中指を立てて「二百」といった。

 それを聞いて田中は手を突きだし親指と小指だけを立てて「これだけだそう」といった。親指と小指を立てた手の形は「六」を意味する。すなわち田中はいい値の三倍をだすといったのだ。

 許清が身体を起こして田中をみた。

「ただし条件がある。宋子文襲撃がいつおこなわれるか。その情報ももってこい。そうすればすぐにカネをだす。襲撃の日時がわからなければなんの役にもたたん。その場合は一銭もだせん」

「宋子文がいつ汽車に乗るかわからないのですから、襲撃の日を前もって知ることはできません」

「襲撃の一日前に知らせればいい。夜行列車が上海に到着した朝に襲撃がおこなわれるのならば、その前夜に宋子文が南京で汽車に乗るときにはすでに襲撃が決まっているはずだ」

 許清は不満そうに顔を顰めた。しかし反論しないところをみると、情報入手は可能だと思っているに違いない。田中が続けた。

「そして、さらにある仕事をすれば追加して払おう。その十倍だ。すなわち六千」

 許清の身体から一瞬で気怠さが消えた。許清は敏捷に身体を起こし、目を大きく見開いて田中をみた。

 田中は、宋子文襲撃にあわせて重光を暗殺するという計画を告げた。

 許清は驚くというよりも、怪訝な顔で田中をみた。

「おまえから宋子文襲撃がおこなわれるという情報を得たら、その同じ列車に重光を乗せる。どうやって乗せるかはおれのほうで考える。翌朝宋子文と重光は連れ立って列車から降りてくる。おまえは宋子文襲撃にあわせて重光を殺す。成功すれば六千だ」

「なぜ重光を殺さなければならないんですか」

「おまえが知らなくてもいい」

「いいえ、それはぜひ教えていただかなくては」

「軟弱だからだ。いまの外務大臣も軟弱だが、重光はそれに輪を掛けて軟弱だ」

「軟弱?どういうことですか。性格が軟弱ということですか。それだけのことでそんなにカネをだしてまで殺したいのですか」

 田中は舌打ちをした。日本の対中国政策をもっと強硬的なものとするために重光を殺したいのだとはいいにくい。許清はカネのためならなんでもするような男だが、中国人である。重光殺害の理由を聞けば難色を示すかもしれない。

 ことばを探していると、許清のほうが先に口を開いた。

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