『上海ノース・ステーション』立ち読み
本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。 全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。 単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。
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「まあ、いいでしょう。私が知ったら仕事をやりづらくなるのかもしれませんし。いいですよ。引き受けましょう」
そういって許清は口元だけを歪めて笑った。不快な笑みであった。許清は腕をのばし、傅く少女の胸のうえに手のひらを置いた。
田中は、「では、おれは帰る」といって立ち上がった。
許清は少女の服のうえから小さな胸をまさぐりながら、「遊んでいかないのですか」と訊いた。
田中は答えずに部屋をでた。
階段を降りるとき、田中はほくそ笑んだ。
許清はおそらく、田中が重光の軟弱な対中国政策を嫌って殺害しようとしていることに感づいている。ただ田中は、重光暗殺にはそれとは別の一層重要な意義があると考えている。ある大きな目的を果たすための重要な一歩となる秀逸な計画であると思っている。
許清は、そのことには気づいていない。
燕克治は俥(くるま)に乗り南京市内を南に向かって走っている。
今宵はやけに蒸し暑い。そのためか痩せこけた俥夫(しゃふ)の足取りは粘着質の路面を進むかのように重い。「もう少し速くならないか」と二度声を掛けてみたが、俥夫はなにもいわずに前を向いたままで梶棒を押し続けている。
細い路地を何度も折れ曲がりながら進んでいく。南京の街は上海に比べて夜が早くて暗い。日が暮れたばかりで天には青さが残っているが、路地に街灯はなく、道沿いの家からは、壁に遮られ、光がほとんど漏れてこないのでひどく圧迫感がある。
ようやく広い通りにでたと思えば、またすぐに曲がって瞻園(ジャンユエン)の正門前の小径にはいった。瞻園は明代に建てられた個人の庭園だが、広大な敷地に重厚な壁を巡らせており、前を通れば黒い壁に押しつぶされそうな感覚を受ける。
南京にきて五日目になる。南京にはどうも馴染めない。上海を離れて一週間もたたずに上海の華やかな夜が恋しくなった。
俥が川沿いの道にでた。克治は大きく息を吸い、それを一気に吐いた。相変わらず辺りは暗いが、俥夫の足取りが多少軽くなり、頬に夕刻の涼やかな風が当たるようになった。
露天が並び賑やかな夫子廟(フーズミアオ)の前を通り過ぎ、川に沿って進んで、貢院街(ゴンユエンジエ)の立派な店構えの金陵料理店の前で俥を止めた。
玄関をはいると三層の吹き抜けの店内は渾然たる喧噪で満ちていた。服務員について階段を上がり、案内されたのは三階の川沿いの小部屋だった。
部屋にはいると朱偉が嬉しそうに手を上げた。克治は、
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
「どうしたんだ。おまえがおごってくれるというなんて。それもこんな上等な店で」
といいながら窓辺に寄って出窓に座った。窓のすぐしたには秦淮(チンフアイ)河が流れ、川面から爽やかな風が吹いてくる。
「大哥(ダーグー)(兄貴)にはいつも世話になってますからね。たまには恩を返さなくてはと思って」
「恩を返す?似合わないことをいうな」
克治は川の対岸に並ぶ妓館を眺めながらいった。妓館のひとつの窓辺に克治と同じように座って夕涼みをする若い女がいる。幼い。十五前後だろうか。着物の足もとがはだけて真っ白な足がつけ根の近くまでみえている。みられていることに気づいたのか、克治のほうをみて、目が合うとにこりと笑った。
「あっちから女を呼びますか。いいですね、それも。楽しくやりましょう。むろん今日は全部おれがもちますので」
克治は微かに名残惜しさを感じながら朱偉のほうへ向きなおって訊いた。
「ずいぶんと羽振りがいいようだな。蒋介石暗殺は失敗して報酬が全くでていないというのにどうしたんだ。おまえがそんなにカネをもっているとは思えんが」
「大哥。子供じゃないんだからこのくらいの遊ぶカネくらいもってますよ。そんなことより芸妓を呼びましょう。ちょっと待っていてください。話をつけてきますから」
そういって朱偉はそそくさと部屋をでていった。
克治は視線を川の対岸に戻した。しかしそこに少女はすでにいなかった。
川面に視線を落とした。屋形船が一艘ゆっくりと流れてゆく。
王亜樵は宋子文暗殺の実行メンバーから克治をはずした。広州国民政府の意向を受けて蕭佛成(シャオフォーチェン)と馬超俊(マーチャオジュン)が訪ねてきたとき、克治は宋子文暗殺に否定的な態度をとった。その態度が王亜樵の気に障ったらしい。王亜樵は、暗殺に疑念をもつ人間が実行チームにいれば計画が失敗に終わる可能性が高まるといって、克治には側面支援の役回りを命じたのだ。克治は南京にいて、宋子文が上海行きの夜行列車に乗るときを調べ、それを上海の実行チームに知らせるという役割を担うことになった。克治の舎弟である朱偉も同様に実行メンバーからはずされて、克治のサポートをするために南京にきている。
料理を運んできた仲居とともに朱偉が戻ってきた。
テーブルのうえはすぐに料理の皿で埋め尽くされた。
朱偉が箸と口を忙しく動かしながら唐突に訊いた。
「大哥。重光葵(チョングアンクイ)を知っていますか」
「なんだ、それは。奇妙な名だな。日本人か。日本人の女に手を出そうとしているのか」
「いやですねぇ。葵(クイ)なんて女みたいな名だけど男ですよ。なんだ、知らないんですか」
「なに者だ」
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「上海にいる日本の公使ですよ。正確には代理公使だそうです」
「それでその葵花(クイフア)(ひまわり)公使がどうした。どうしてそんなことを訊く」
「いや。大哥ならなにか知っているかと思って。おれは顔すら知らないですからね」
「なぜ日本の公使のことをおまえが知る必要があるんだ」
「いや、別に──」
朱偉はそういいながら視線を逸らした。そして、いったん休めた箸を再び動かし始めた。
克治は朱偉の態度に不自然さを感じはしたが、それ以上は訊かなかった。
朱偉が話題を変えた。
「それで、宋子文の動きを知る方法、なにか思いつきましたか」
朱偉は克治について南京にきたが、南京にきてからずっと行動をともにしているわけではない。克治の仕事の進捗状況を知らないのだ。
「おまえが出歩いているあいだに全て整えたよ。財政部の部長室付秘書の顧麗玉(グーリーユー)という女を手なずけてある。新聞を部屋まで届けたり、上海の銀行から送られてくる日々の為替相場の状況の紙を部長に渡したりすることが主な仕事だ。軽い役職だが、宋子文が南京にいる限りは毎日顔を合わせる。宋子文が外出するときに公用車を呼ぶのも、上海に帰るための汽車の切符を手配するのもその女の仕事だ。宋子文の南京での動きをよく知っている」
「その女、若いんですか」
「どうでもいいだろう」
「『手なずけてある』って、どうやって手なずけたんですか」
くだらないことを訊く、と思い克治は「フッ」と鼻をならした。
「おまえが想像しているような方法ではないよ。南京にきてからわずか五日の間では無理だろう」
「五日で無理かどうかはわかりませんが、じゃあ、どうやって」
「新聞記者だと名乗った。宋子文についての記事を書くためにその動きを知りたいといって、情報を教えてくれれば一回につき一元払うといったら喜んで協力するといっていたよ」
「一元?安くないですか」
「宋子文が南京にいる限り毎日だからな。いつまで払い続けなければならないかわからない。控えめな金額にしておかなければ予算が尽きるかもしれん」
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