『上海ノース・ステーション』立ち読み
本ページで『上海ノース・ステーション』の一部を立ち読みいただくことができます。 全文は電子書籍(Kindle版)または単行本でお読みいただけます。電子書籍は下記のリンクからアマゾンにてご購入ください(Kindle unlimitedで無料で読むこともできます)。 単行本については、本作は『小説集カレンシー・レボリューション』に収録されていますので、下記のリンクよりアマゾンにてお求めください(『小説集カレンシー・レボリューション』には関連した長編小説1本、中編小説1本と合わせて合計3本の作品が収録されています)。
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克治は坂道を逸れ松林にはいった。
銃声が続いている。衛兵が手榴弾は不発であると気づき、坂を走る朱偉に撃ち掛けているのだろう。
克治は走り続けた。
惜しかった。朱偉が計画どおりに動いていれば憎き蒋介石を討ち取ることができただろう。しかし失敗した。同志の陳城は命を落としたか、そうでなくても処刑されるだろう。
今後廬山での警備も南京同様に強化されるに違いない。
蒋介石暗殺はもはや難しくなった。
克治は朝靄のなかを走りながら唇を強く噛み締めた。
唇は微かに血の味がした。
小島譲次※は蛇行しながら緩やかにくだる坂道を歩いている。この道とは別に宿への近道となる急な坂道があるのだが、そこはどういうわけか今朝から通行が禁じられており、往路も復路も遠回りをしなくてはならなかった。
聯盟(れんめい)通信社の上海支局長である小島はアメリカ留学時代の友人のツテを使って蒋介石へのインタビューを申し入れ、半年ほど待たされた末に先方よりようやく「六月十四日の早朝に廬山にてインタビューに応じる」と通知があった。蒋介石への単独インタビューとなれば大スクープだ。小島は勇躍上海から長江を遡り九江(ジウジアン)を経て、昨夜廬山に登った。そして約束の今朝七時に指定された場所を訪れたのだが会議室で待つようにいわれ、数時間待たされたあげくにインタビューは中止だといわれて追い返されてしまったのである。
小島は東京高等商業学校を卒業後、ハーバードに留学し経済学を学んだ。そのときの同学に現在国民政府財政部長を務める宋子文がおり、子文が蒋介石へのインタビューの橋渡しをしてくれたのである。すなわちこれは軽く扱われるようなツテではないはずなのだ。小島は坂道をくだりながら、いったいなにが起きたのだろう、と思い首を傾げた。
洋館の別荘が建ち並ぶ細い道をくだっていく。
途中何度も銃を背負った兵士の姿をみかけた。ただの歩哨ではなくなにかを探しだそうとしているような緊張感が感じられた。小島も二度止められ身分証明書の呈示を求められた。
遠回りのせいで本来十分ほどの道のりを三十分ほどかけて宿に戻った。
瀟洒な洋館である。三十年ほど前にドイツ人が個人の別荘として建てたものだそうで、いまは国民政府が外国人の招待客を泊めるためによく使うらしい。
ロビーにはいった小島はそのままダイニングにいき、昼食を済ませたのちに二階の自分の部屋に向かった。
部屋にはいりリビング・ルームのソファにジャケットを脱ぎ捨てた。部屋のなかが薄暗い。今朝、日の出とともに部屋をでたのでカーテンを開けなかったのだ。小島はネクタイのノットを揺らして緩めながら窓辺に寄り、カーテンを横に引いた。
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
そのとき、後頭部に固いものが当てられた。
振り返ろうとすると、「別動(ビエドン)(動くな)」と、低い声が小島の動きを制した。
小島は両手を頭の高さに上げ、窓のほうを向いたままで「開けてもいいかな」と訊いた。
「構わん」
小島は開きかけのカーテンを端まで引き、反対側のカーテンも開けながら振り返った。
男が右手に持ったリボルバーで小島をさしている。
「銭は大して持っていないぞ。みたとおり僕は裕福な旅行者ではない。侵入する部屋を間違えたんじゃないのか」
「銭が目当てではない」
「そうか。じゃあいったいなんの用だい。心当たりがないのだが」
小島はそういいながらゆっくりとした挙動でソファに腰掛けた。
男も銃を小島に向けたままで正面のソファに座った。
「やはり人違いじゃないのか。そうならば通報はしないからでていってもらえないかな。朝が早かったから少し休みたいんだが」
「人違いではない」
「僕が目当てなのか」
「そうだ」
「わからんなぁ。心当たりが全くない」小島は眉間に皺を寄せて首を傾げた。「しかしその物騒なものを下ろさないか。きみに飛びかかろうにも僕はこのとおり座っているし、われわれのあいだの卓が邪魔をするのでできないよ」
男は一瞬考えてから銃を自分の傍らに下ろして、いった。
「昨夜食堂であんたをみかけた。そのとき、鍵の部屋番号をこっそりみさせてもらった」
「なぜ僕なんだい」
「この賓館の唯一の日本人宿泊客だからだ」
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「おいおい。じゃあきみは抗日の活動家かなにかかい。でも僕を殺したところでなんにもならないぞ。日本製品の抵制(ディージー)(ボイコット)でもしたほうがましなんじゃないか」
小島はそういって大仰に両手のひらを男に見せた。
男は「フフ」と小さく笑った。
「抗日活動家じゃあない。前台(チエンタイ)(フロント)で自分は日本人だと偽り、あんたが部屋にいるかを訊き、外出していることを確認してから『同郷の友人と待ち合わせているから彼の部屋の鍵をくれ』といったのだよ。前台は疑うことなく簡単に鍵をくれた」
「なんだそれは。ずいぶんと杜撰だなぁ」
「日本人の宿泊客などめったにいない。宿に日本人が泊まっていることを知っているというだけで信用したのだろうよ」
「ほお。なるほど」小島は大きくうなずいてみせた。「いや、納得している場合ではない。なぜ他人の部屋に勝手にはいらなければならんのだ。金品が目的でもないのに」
この問いに対しては、男は小島の目をみつめたままで答えなかった。
小島は天井をみながら考えて、
「朝からこの村はどうも妙な感じだが、その原因がきみか。きみがなにか騒動を起こしたんだな。あちこちにいる兵士はきみを探しているんじゃないのか。それで身を隠す場所として僕の部屋を選んだ、というわけか」
男は口を開かない。小島は再びうえをみて天井に向かって喋った。
「もし官憲が追うべき相手は中国人だと確信しているのなら、日本人の部屋に逃げこめば安全だろうな。ならばきみは官憲に知られた人間でその顔をみられたか、もしくは仲間が捕まったか──」
やはり男は口を噤んだままだ。
「きみはいったいなにをしたんだ。いま蒋介石が廬山にきているから、まさか蒋介石を狙ったのか」
「なぜ蒋介石が廬山にいると知っている」
小島はゆっくりと立ち上がり、サイドボードのうえに置かれたブランデーのボトルとグラスふたつを手に取った。ブランデーは昨夜の寝酒用にと開けたものである。
ロー・テーブルにグラスを置き、ブランデーを注ぎながらいった。
「まだ陽が高いが、しばらくここに居座るつもりなんだろう。一杯飲め」
男は水のようにひとくちで飲み干した。小島は再度注ぎながらいった。
「僕は新聞記者だ。僕はきみが官憲に捕まることよりも、いったいきみがなにをしたのか、その動機はなんなのか、そしていったいきみが何者かを知ることに興味がある。話してくれれば見逃してもいい。山を下りる手助けをしてやることもできるかもしれない」
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