『上海ノース・ステーション』立ち読み
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小島は眉間に皺を寄せた。
「それで、重光というのはどういう男なんだ。殺されるような理由はあるのか」
「おいおい。きみの弟は日本の公使を暗殺しようとしているというのか」
「いや、そういうわけではないよ。なにもわからない。ただ、あいつも一応は殺し屋だ。その可能性はないとはいえない」
小島は少し考えてから、
「重光代理公使の前々任者の佐分利(さぶり)公使が辞令を受けた直後に死んでいる。警察は自殺としたが死に方に不審なところがあり他殺という説もある。もし他殺だとしたら、同じポストに就いている重光代理公使も殺される理由があるというべきかもしれない。ちなみに佐分利公使は中国に宥和的な人だった。その後任者は対中国強硬論者で中国側によって受け入れを拒否され、そのため重光上海総領事が代理公使を兼任することとなったんだが、重光代理公使も中国に宥和的だ。対中国強硬論者が佐分利公使を殺し、重光代理公使をも狙っているということはあり得る」
「重光が死ぬことを望む人間はいるということか──」
克治はひとりごとのようにそういった。
「おい。代理公使が暗殺者に狙われるというのなら、それはおおごとだぞ。それに護衛の兵隊に囲まれている蒋介石と比べれば代理公使は裸同然だ。暗殺者に狙われれば簡単に殺されてしまうぞ」
「いや、もちろん重光が狙われているといっているわけではないよ。あくまで、そういうことがあり得るかどうかを考えているだけだ」
「きみの弟はきみの知らないところで誰かの依頼を受けて暗殺を請け負う可能性があるのか」
「最近急に羽振りがよくなったんだが、新しい仕事をみつけたといっていた」
「誰に雇われた」
「許清といっていた」
「何者だ」
「性風俗店をいくつかもっている男だ。青幇(チンバン)の幹部でもある」
「代理公使に警告しなければならん。公使館に連絡をしてみる」
小島は電話を掛けにフロントに下りた。
部屋に戻ってきた小島がいった。
「重光代理公使は今日はすでに公使館をでたそうだ。今夜の南京発の列車に乗るらしい。僕が駅にいって、そこで代理公使を捕まえて警告することにするよ」
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
「なに?重光は今日の夜行に乗るのか。上海行きのか」
「ああ。通常は木曜か金曜の夜行に乗るのだが、上海で急用ができて、急遽今日の列車で上海に向かうことになったらしい」
(宋子文と同じじゃないか)
と克治は思った。宋子文も木曜か金曜日に上海へ向かうはずが急遽今日の夜行に乗ることになった。偶然といえるのだろうか。
克治は腕組みをして考えた。
ひとつの仮説は、対中国強硬派が重光暗殺を企てており、宋子文襲撃と同時に重光を暗殺しようとしている。ところが宋子文が突如今夜南京を離れることになったので、それを知った重光暗殺グループのひとりである朱偉は急ぎ仲間にその連絡をした。そしてなんらかの方法で重光暗殺者は重光の上海行きを一日繰り上げさせた。
克治は首をひねった。仮にそうだとしても、ではなぜ重光の暗殺は宋子文襲撃と同時におこなわれなければならないのだろうか。宋子文襲撃者に罪を着せるためだろうか。そのためにそこまで手のこんだことをするだろうか。
小島が自分の空になったグラスにブランデーを注ぎながらいった。
「本当に重光代理公使が暗殺されるようなことがあれば大問題になるぞ。任地で外交官が、それも代理とはいえ公使の立場にあるものが殺されれば大きな国際問題になる。ただでさえ日中関係が難しい時期だ。まさか代理公使の暗殺などないとは思うが、万が一にもそんなことがあったら大変だ」
小島はなにげなくそういったようだが、克治はそのことばを聞いて目を瞠った。
(まさか、それが目的か)
重光の暗殺を宋子文襲撃と同時におこなうのは重光暗殺の罪を逃れるためではなくて、中国人によって日本の要人が殺されるという事実が欲しいためか。
「中国人の手で重光が殺されたら、どんな問題が生じる」
「事故や外交と全く関係のない痴話喧嘩かなにかで殺されたというのなら別だが、中国人が暗殺を企てて殺したとなれば大変なことになる。日本国内での対中国感情が一気に悪化する。それにより日本の対中国強硬論者が勢いづき、幣原外相など宥和論者はモノもいえないという雰囲気になるだろう。万宝山での事件に絡んで朝鮮で中国人に対する暴動が起こったが、同じように東京で中国人が多数殺傷されるような事態が発生するかもしれん。そしてそれに対して中国で報復的な運動がおこなわれ日本人が傷つくようなことにでもなれば、日本軍は対中国強硬世論に乗って部隊を送るだろう。日中間の本格的な軍事紛争の始まりだ。そのとき中国は国際世論に対して日本の不当を訴えようとしても、日本の外交官を殺したということが大きな足かせとなり、国際世論は中国に味方してくれないだろう」
「不会_(ブーフイバ)(まさか)──」
「いや。もし本当に重光代理公使が当地で暗殺されるようなことがあれば、そうなる可能性は決して低くない」
克治は立ち上がった。そして無言で出口に向かって歩き始めた。
うしろで小島が「おい。どうした」と声を掛けたが、克治は振り返らなかった。
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克治が小島の宿から無言で去ったあと、小島はすぐに支度を整えて南京車站に向かい、待合室で重光が到着するのを待った。
まもなくして白のスーツを身にまとい同じく白いブリーフケースを提げた重光が、堀内書記官と林出書記官のふたりを連れて待合室に現れた。小島は重光に命が狙われているかもしれないことを伝えたが、重光は「そんな噂を聞いたのは二度や三度ではない。気にしてはいられない」と、とりあおうとはしなかった。小島は、蒋介石暗殺未遂の実行犯から聞いた話であることを告げて、ただの噂ではないことをわからせようかとも思ったが、克治と交わした暗殺成功か越年までは他言しないという約束が気に掛かり、口を噤んだ。
克治の舎弟の朱偉は忽然と消えたという。朱偉に急がねばならない理由があったのだとすれば、重光暗殺は今日や明日にでも実行されるのかもしれない。
そう考えて小島は、油断する重光に代わって警戒すべく、一行とともに上海に向かうことにした。
プラットホームにでると雨は上がっていた。
降り続いた雨の水気をたっぷりと蓄えた大気と出発を待つ機関車の煙突から吐き出された白煙が、二本の列車にはさまれたプラットホームのうえで逃げ場を失い厚く滞留し、電灯の青い光を受けてゆらゆらと揺れている。
小島は重たく熱を帯びた空気に噎(む)せ返りそうになりながら上海行き夜行列車の後方の車両に向かって歩いていった。小島のすぐ前には重光とふたりの書記官が並んで歩いている。機関車が水蒸気を吐きだす音が響き小島は振り返ってみたが、巨大な荷物を担いでうごめく無数の人々に隠され、先頭にあるはずの機関車の姿はみえなかった。
小島の前を歩く堀内書記官が重光に向かっていった。
「小島君のことばに少し耳を貸したほうがいいような気もしますが」
「心配することはないさ」
「しかしご存知のとおり、田中大尉は公使を殺すと公言しています」
「いくらなんでも武官補が代理公使を殺害することなんてあり得んよ」
「自分の手は汚さずに殺し屋を雇うかもしれません」
「あり得ん、あり得ん」
と、重光は意に介さない。
最後尾から二番目につながれている車両の乗車口の前で重光が立ち止まり、振り返って小島に声を掛けた。
「きみひとりで私を護ってくれるというのかい」
「念のためにお供させて頂こうと思います」
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