『上海ノース・ステーション』立ち読み
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重光は笑いながら、煩い小蠅を追い払うかのように手の甲を小島に向けて振った。
克治はドアを開きドアステップに片足をかけた。
列車はまだ動いている。前方に上海北站のプラットホームがみえてきた。その向こうにはゆく手を阻むように駅舎が聳えている。駅舎のうえに昇りつつある朝陽が瞳を刺し、克治は思わず目を細めた。
プラットホームか駅舎のなか。そのいずれかの場所に王亜樵たち宋子文暗殺者が息を潜めているはずだ。そして、重光葵の暗殺者も。
宋子文暗殺計画を利用して日本が大きな謀略を仕掛けようとしている、昨夜小島との会話でそう気づいた克治はすぐに王亜樵宛に宋子文暗殺を中止すべきとの電報を打った。しかし王亜樵は、昼に克治が送った宋子文の予定を知らせる電報を読んだあと、上海北站のすぐそばに借りた部屋へはいったはずであり、夜に送った電報はみていない可能性が高い。そこで克治は急遽上海行きの夜行に飛び乗った。上海北站に着き次第、先回りして王亜樵たちの暗殺実行を中止させるのだ。
列車のなかで昼に忽然と姿を消した朱偉を探してみた。最後尾の特別車両を除いて全客車をまわってみたがその姿は見当たらなかった。朱偉は宋子文暗殺の実行日を知らせる役のみを担っており重光暗殺の実行犯ではないということなのか。もしくは、南京を昨日の昼にでて昨夜のうちに上海に着く列車に乗ったのかもしれない。
蒸気機関車がプラットホームに滑りこんでいく。
先頭の客車のデッキで到着を待っていた克治は、自分の客車がプラットホームの端まできたところでドアステップを蹴って飛んだ。足がプラットホームに着いた瞬間にバランスを崩し倒れこんで肩を強く打ってしまったが、すぐに立ち上がって走りだし、たったいま降りた客車を追い越した。蒸気機関車をも追い越したとき、列車はまだ小走りほどの速度で動いていた。
プラットホームの東端まで走り、そこで立ち止まって左右をみまわしてみたが、刺客が潜む気配はなかった。
南方にある駅舎に小走りに向かった。走りながら物陰に注意を払ったが刺客はいないようだ。
駅舎の前まできたとき、視線を感じた。駅舎入り口脇の太い柱のほうをみると、一瞬だけ男の姿がみえた。男はすぐに柱の陰に隠れたが、確かに朱偉だった。
克治はゆっくりと柱のほうへ歩いた。
柱の裏にまわると、濃紺の長衣を着た朱偉がモーゼルの銃口を克治の胸に向けた。朱偉は怯えているようにみえた。銃を持つ手がわずかに震えている。
「王首領の指示でここに立っているわけではなさそうだな」
朱偉は銃を小刻みに揺らすのみで答えなかった。
「日本の公使を狙っているのか」
「……」
全文は 【単行本】小説集カレンシー・レボリューション でお読みいただけます。 |
「やめろ。おまえは銭のためにこの仕事を受けたのだろうが、その意味はおまえが思っているより遥かに大きい」
「……」
「おまえはおそらく嵌められている」
「どういう意味だ」
「日本人は重光殺害を王首領やその依頼主のせいにして、それを口実に上海に軍隊を送りこもうとしている」
「そんなことはどうでもいい。おれには難しいことはわからん」
克治は焦っている。早く王亜樵に宋子文襲撃中止を伝えねばならない。朱偉の説得に時間をかけている余裕はないのだ。
「おまえは重光がどういう男か知っているのか」
「大哥。殺す相手がどんな人間かなんて知らないほうがいいのさ。不要な情がでなくていい」
「重光の顔すら知らんのだろう。どうやってやるつもりだ」
「重光は宋子文と一緒に降りてくる。王首領たちが宋子文に向かって発砲したとき、おれはそのすぐそばにいる重光をやる。簡単さ」
朱偉は宋子文への発砲を合図に重光を撃つつもりでいる。ならば、朱偉は王亜樵が宋子文襲撃を中止すれば発砲しない。克治はそう考え、朱偉の説得を打ち切った。そして駅舎のなかへはいっていこうとしたとき、後頭部に強い衝撃があった。
激痛を覚えながら崩れるとき、自分の後方に立っている男の顔をみた。
許清であった。
ときを南京発上海行き夜行列車が上海北站にはいり始めたころに戻す。
小島譲次は最後尾から二両目の車両のデッキで到着を待っている。
小島はドアを開いて身体を乗りだし、朝陽に目を細めながら前方をみた。
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最前方の客車が機関車に続いてプラットホームに滑りこんでいくとき、よっぽど急ぐことでもあるのか、旅客がひとり飛び降りるのがみえた。その旅客はプラットホームのうえで転がったあと、すぐに立ち上がって駅舎のほうへ向かって駆けていった。
列車は速度を落としてゆき、やがて歩くほどの速度になったが、それが完全に停車するまでには、ときが止まっているのではないかと疑うほどの間があった。
軋むブレーキ音に続いて、蒸気を吐きだす長い吐息のような音が響き、列車が停止した。
小島はすぐには降りず、デッキから身を乗りだした姿勢のままで前をみていると、遥か前方の車両からふたりめの旅客が降車し、そのあとすぐに他のドアからも旅客が降り始めた。そして瞬く間にプラットホームは出口へと急ぐ人々で埋め尽くされた。
振り返って後方をみた。
小島が身体半分だけを乗りだしているこの車両の後方には特別車両しか連結されていない。小島は、後方に人影がないことを確認してからプラットホームに降り立ち、デッキのうえで待つ重光に向かって「さあ、いきましょう」と声を掛けた。
重光が段差のあるステップを慎重に降りてくる。ふたりの書記官がそのあとに続いた。
小島は重光を伴って、一両前の車両から降りてきた旅客のなかに紛れこみ、早足で出口へと向かった。
プラットホームのうえの降車客がさらに増え、ゆっくりと歩を進めなければならなくなった。小島は人の壁をかき分けながら、プラットホーム中央の、ひとの最も多いほうへと踏みこんでいった。
「おい。ちょっと待ってくれ」
と、重光が小島の背中にいった。普段なら重光は、列車が駅に入線してからコンパートメントのなかで身支度を始め、降車客の波が過ぎ去ったあとに列車から降りる。人に揉まれるようにして歩くことに慣れていないのだろうが、小島は素早く振り返って、「このほうが安全です。遅れずについてきてください」と、重光を急かした。
駅舎にはいる数メートル手前で濃紺の長衣の男が柱の陰に立って人の流れをみつめていることに気づいた。小島は一瞬肩に力を入れたが、男は小島たちの後方を怯えるような目でみている。
男の横を通過するとき、長衣の腹に突っ込んだ男の手の先に黒いものが握られているのがみえた。大きさからみて、おそらくモーゼルだ。男の視野に小島たちの姿はないが、明らかに誰かを狙ってそこに立っている。人波に隠れる重光を見落としたのだろうか。
小島は重光に小声でいった。
「銃を持っている男がいます。気をつけてください」
「ああ。私も気づいた。どうやらきみのいっていたとおり、刺客が潜んでいるようだ」
そういいながら重光は顎を引き、帽子のつばを下げた。
広大な二等客用の待合ホールの脇を抜け、薄暗いコンコースにはいった。駅舎からの出口はひとつしかなく、その狭い出口に群がる人でコンコースは一層混み合っている。これだけ重厚な人間の盾に護られていれば襲撃されることはあるまい。残る危険は駅舎をでてから迎えの車に乗るまでのあいだだけだ。
ようやく出口を抜けると、幸いなことに重光の迎えの車は駅舎のすぐ前に横づけしていた。ひとの波から離れることなく重光を車に乗せることができた。
額の汗をぬぐい、「フー」と長い息をつきながらいまきたほうを振り返ってみると、長衣の腹部に手をさし入れた男がふたり、出入口の脇の壁に身を寄せて乗客の流れを睨んでいるのがみえた。
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