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杭州楼外楼


起源前607年、春秋戦国時代の中国。鄭国は、公子帰生を大将に隣接する宋国に出兵した。迎かえ撃つのは宋の元帥華元。

出撃を前に華元は、兵の士気を高めようと、羊の肉入りスープを作らせ、兵にふるまった。しかしうっかりして自分の戦車の馭者に食べさせるのを忘れてしまった。

いざ出陣という時になり、馭者は自分だけが食べていないと知り華元に対し、
「皆は羊肉スープを食べたとのことですが、私はいただいておりません。元帥のために死力を尽くすためにも是非羊肉スープを」
とごねた。

華元は、
「もう出陣だ。戦いが終ってから褒美をとらす」
と言い聞かせた。しかし馭者は納得がいかない。

戦いが始まり全軍が突進した。同時に、後方にいた華元の戦車は前方の部隊を追い越し、単騎で鄭軍に突っ込んでいった。馭者は自分にだけ羊スープを与えなかった華元を許さなかったのである。当然に華元は容易に捕えられ、将を失った宋軍はあっけなく壊滅した。

この時の馭者の名は伝えられていないが、後代の人々は彼を「羊斟」となずけ、食べ物の恨みは怖いという意味の「羊斟の恨み」という言葉を作った。

前置きが長くなったが、食べ物は人の行動に大いに影響を与えるということである。そして私も、つい先日あるものを食べるためにえらく苦労をした。

ある雑誌に杭州の「楼外楼」の紹介記事が載っていた。私は正直に言ってグルメではない。まずいものはわかるが、うまいものはわからない。私にとってはまずいもの以外は皆うまいものなのである。親は私のことを味盲と呼ぶ。

しかしその手のグルメ記事を書く人の筆の力というのはすごい。

「遥けき神秘とその混沌の恵みをのせて、皿の上で輝ける宇宙の滋味となる」

この表現に魅了されてしまった。

同僚に楼外楼のことを聞くと、「上海駐在員の常識だ」とのことである。杭州には過去3回行ったが楼外楼には行ったことがない。はずかしいことらしい。そういえば上海エクスプローラー用の原稿も書かなくてはいけない。上海駐在員は皆行ったことがあるかもしれないが、上海エクスプローラーは日本からの観光客向けにも情報発信をすると聞いている。さっそく行ってみることとした。

といっても泊がけでいく時間はない。日帰りである。

当日、起きると既に12時である。前日朝2時まで飲んでいたのがいけなかった。外は雨が降っている。自分で車を運転していくのだが、
「のろのろ走る鉄道で3時間くらいだから、車なら2時間かな。1時に出発すれば、暗くなるのは帰りがけの最後の30分か1時間だな。なんとかなるだろう」
と判断し出発した。夜の田舎路の運転は怖い。特に雨の日はそうである。でも暗くなるのは上海市のそばに来てからであると考えたのである。しかしこの判断が甘かった。

仕度にやや時間がかかり、1時20分に家を出る。高速道路で松江に行く。高速道路では人が飛びだしてくることはまずない。簡単に松江に到達する。しかしその後がわからない。標識がないのである。道行く人に聞いても聞く度に言うことが違う。聞けば聞くほど混乱する。よってともかく適当に南へ南へと向かうこととする。

片側1車線の並木道を走る。「こんな細い道が上海ー杭州という大都市間の幹線であるわけはない」と不安ではあっが止むを得ない。途中事故による渋滞でまったく動けなくなったりしながらも、1時間程で片側3車線の大通りに出た。同時に杭州の方向を示す表示もある。やれやれである。しかしその表示をよく見れば「杭州122km」と書いてある。目を疑った。ここまですでに2時間近くを費やしている。あと30分で着くわけがない。時速50kmで走ると計算してさらに2時間30分ほど必要だ。何かの間違いに違いないと自分に言い聞かせて先を急いだ。

杭州まで残り30kmというところで暗くなってきた。雨は一段とひどくなっている。夕暮れ時は歩行者も多い。神経が擦り切れる。

夕暮れ時に、「どうして中国の車はライトをつけるのが遅いのだろう」と思われたことはないだろうか。私も常々不思議に思っていた。日本の感覚で早めの点灯をすると対向車にパッシングされる。ある日夕方にライトをつけて走っていたら公安に止められライトを消すよう指示されたこともある。中国では早めの点灯はいけないことらしい。

この理由がこの日始めて分かった。街灯のない道で対向車がライトをつけていると、対向車と自分の間にいる歩行者がまったく見えなくなるのである。日本では道路の上にいるのは車だけという前提で、車は自分の存在を対向車に知らせるためにライトを早めにつける。しかし中国の路上には人もいるのである。歩行者は、特に雨の日は、まったく見えない。よってぎりぎりまでライトをつけないのが交通マナーとなっているようなのである。

5時半頃やっと杭州市内に入る。しかし市内に入ってからも、どっちにいけばいいのかわからない。何度も何度も道を聞き、U-ターンを繰り返し、5時55分に遂に楼外楼にたどり着いた。出発より4時間半である。198.3kmであった。杭州がこんなに遠いとは思わなかった。こんなことなら鉄道で来ればよかった。

楼外楼は西湖の北端に浮かぶ小島の中にある。冒頭で述べたとおり上海駐在員なら知らない人はいない(私はしらなかったが)という老舗である。前述の雑誌記事によると、楼外楼は100年余の歴史を誇り、シェフは呉順初さんという国家特一級厨師だそうだ。楼外楼の窓からは西湖が一望できる(はずだ。もう暗くなっているので全然見えない)。

とりあえずミーハーに、有名なものを注文した。

西湖醋魚王:

桂魚の甘酢あんかけ料理である。南宋時代、宋五嫂という女性の店で出されていた料理で、料理の評判を聞きつけた当時の皇帝は宋五嫂を宮殿に連れていこうとした。しかし宋五嫂は逃げてしまい行方をくらました。その後も人々が宋五嫂の料理を懐かしんでいたため、ある漁師が店を開き、同様の料理を、西湖醋魚と名を変えて出すようになった。

私は常日頃「中国の魚は日本人の口にはあわない。特に桂魚がひどい。日本人は魚の旨さを知っているのだ」などと言っていた。しかしこれが間違いであることを知った。実に旨い。どう旨いかは文章力がなくて表現できない。そこで再び雑誌記事の表現を借りてこよう。「さっぱりとして気品があり、むっちりとして、ほのかに清々しく、色、匂い、味、カタチが調和して、しかも微かに川湖淡水の風味が織りこまれて、喉にスルスルと入っていく」。

東坡肉:

11世紀後半に2度に渡り当地に政府官僚として赴任した詩人蘇東坡が調理法を教えたと伝えられる。蘇東坡は西湖を改修し、その結果それまで頻発していた干ばつや水害がなくなり、大豊作となった。収穫後の新年に農民達は蘇東坡の館に多量の豚肉と酒を持って新年の挨拶に訪れる。蘇東坡はこの豚肉と酒を使って調理し農民達に与えた。人々は喜び、その肉を東坡肉と呼んだ。

私は肉の角煮というのは、昔からあの脂身が苦手であった。しかし東坡肉は別格である。甘さと脂ののりが何とも言えず美味である。

叫化童鶏:

冬のある日、盗人が鶏を盗んだ。追われた盗人は鶏を埋め、その上でたき火をし、素知らぬ顔で追手をかわした。追手が去った後鶏を掘り出して食べてみたところ極めて美味であった。これがこの調理法の始まりと言われる。鶏を岩塩で分厚く覆い蒸し焼きにしたもので、目の前で小姐が木づちで塩を叩割ってくれる。ただし、私はこの料理はあまり好きではなかった。グルメではない私に批評などできるものではないが、ちょうど正月に乗った某米系エアラインの機内食のような味であった。どうもパサパサして、思わず塩胡椒をしたくなった(あくまで個人的意見です)。

西湖春莼菜湯:

西湖名産の莼菜のスープ。ジュン菜はぬるぬるしている。西湖でとれるわけだが、昔はまだしも今の西湖は決してきれいとはいえない。ちょっと不安がある。でも味はよし。

そして龍井茶。言わずと知れた杭州の名産緑茶である。帰りも運転しなければならないのでビールは飲めない私は龍井茶をビールがわりに流しこんだ。ここで飲む龍井茶は上海で飲むより全然旨い気がする。上海で飲む時に感じる臭みがない。葉は同じであろうから、水の違いであろうか。

以上紹介したものと前菜、野菜で2人で234.7元であった。安い。中国生活の最大の楽しみはやはり食べることである。これだけの高級珍味を一人2000円程度である。味盲の私でも「これだから中国駐在は止められない」と思ってしまう。

7時に帰路につく。あたりは完全に暗くなっている。雨も相変わらず降り続いている。憂鬱だ。しかし明日の予定があるので帰らないわけにはいかない。

「上海204km」という表示があった。「来る時にあんなにうろうろしながら来て198kmだったのに、なぜそれより長いんだ」と思いつつ3分ほど走ると、今度は「上海212km」とある。さらに3分ほど走ると「上海190km」と書いてある。ここの道は伸び縮みするのか。

怖い。雨の夜は対向車のライト以外は何も見えない。その上、片側1車線の道で自分の走っている車線が突然なくなったり、逆行してくる対向車がいたり。とっても怖い。幸い雨が強いせいか路上に人はほとんどいないが、前方をのろのろ走る無灯火のバスに突っ込みそうになる。

そこで一つの「ワザ」を思いついた。自分とほぼ同じペースで走る車を見つけたら、その車のすぐ後ろにピッタリくっついて走るのである。こうすれば前の車のテールランプをひたすら追いかけていけばよい。歩行者がいても事故を起こすのは前の車である。上海ナンバーの車についていけば、道に迷うこともない。この方法を思いついてからは平均速度が2倍位になったであろう。

しかし上海市に入ったあたりで目が痛くて空けていられなくなってきた。私はコンタクトレンズをしているが、数時間に渡り真剣に目を見開いていたためだろう。痛くてどうにもならなくなり、真っ暗な田舎道の中で30分ほど目をとじる。

11時30分頃ついに帰りついた。帰りも4時間半である。全走行時間約9時間、全走行距離約400km。幸い事故も起こさずに帰ってきた。しかしこれほど苦しい運転をしたのは始めてである。東京から青森まで一晩で行ったことや、ワシントンからナイアガラ・フォールまで一気に走ったこともあるが、これほど疲れたのは始めてだ。もう一度やれといわれても絶対いやだ。

それもこれもすべて『食』のためである。

再び春秋戦国時代。冒頭で述べた大棘の戦いの2年後である。楚国の荘王は鄭国の霊公に対し、友好のしるしとして揚子江でとれた巨大なすっぽんを送った。鄭国の霊公はそれでうま煮を作り重臣たちに、事前に知らせずに、ふるまうこととした。

公子宋は、たまたま参内の途中で立ち寄った公子帰生に対し、「今朝人さし指が動いたんだ。俺の人さし指が動いた時はかならず旨いものにありつける」と言った。

二人は揃って宮殿に入るが、果たしてすっぽんのうま煮があった。思わず笑ってしまった二人に対し霊公は聞く。
「なぜ笑ったのだ」
公子宋が説明するが、霊公は
「そんなことはありえない」
と怒り、しまいに
「公子宋にはすっぽんのうま煮を与えないこととする。人さし指が動けば旨いものにありつけるなどということがあるものか」

むっとした公子宋は
「いえあります」
と言ってすっぽんの鍋に指を入れそれをさっと舐めた。

いわゆる「食指を動かす」とはこの故事からきている。

霊公は怒り、霊公の怒りを恐れた公子宋は結局霊公を殺すこととなるのだが、中国史には、このように食べ物が生死にかかわる問題に発展する故事が多数残されている。中国ではそれほどまでに『食』は重要なのである。

そして私も、この度の行程で、中国人のこのような考え方に少しは近ずけたかもしれない。■


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