フラフラのラサ観光
2日目は午後より、今世紀初めに日本人僧河口慧海と多田等観が滞在したことで有名なセラ寺をふらふらしながら見た。中庭では少年・青年僧達30人程度が問答を行っていた。1人の立っている僧と1人の座っている僧が向い合い、立っている方が威勢良く質問し、質問の最後に手を叩く、座っている方がボソボソ答える。えらく賑やかである。
午後はさらに歴代ダライ・ラマの夏の宮殿であるノルブリンカに行く。広い敷地内は公園になっており、その中にはいくつもの建物が建てられている。うちタクテン・ポタンと呼ばれる建物は1950年代に建てられたもので、現在亡命中のダライラマ14世が夏の間政務を処理した。中にはリビングルーム、書斎、謁見室などがある。これらの部屋は意外に狭く内装も質素である。
3日目は午前中に、「これを見ずしてチベットに来たとは言えない」とも言われるポタラ宮へ。ポタラ宮はラサ中心の丘の上に町全体を見下ろすように建っている。紅宮と白宮に別れ、紅宮には歴代ダライラマの霊塔等が置かれている。うちダライラマ5世の霊塔は高さが14mもあり、3700kgの金が使われていると言われ、トルコ石・メノウ等の宝石でくまなく飾られている。当時のチベットの繁栄を窺わせる豪華さである。白宮はダライ・ラマ5世が建築したもので、謁見室、居間等を見ることができる。装飾は豪華だが、各部屋の面積はかなり狭い。謁見室でも80平米程度だろうか。
チベット仏教
ラサは仏教の町である。特に大昭寺及びその周辺地域はそれを強く印象づける。多数のチベット人が五体投地を繰り返し、歩いている人はぶつぶつとお経を唱えている。チベットで逢う人は、知識人も含め皆チベット仏教を信仰しているようである。
同時に信仰の対象として、釈迦等よりむしろ、ダライ・ラマ、パンチョン・ラマやチベット仏教の4大宗派のうち現在最大宗派のゲルク派宗祖であるツォンカパ等の人物が重視されているという印象を受けた。チベットの寺院の中にはパンチョン・ラマの写真やツォンカパ像が多数置かれている。
中でもダライ・ラマへの信仰というのは相当なもののようである。人々は、子供も含めてダライ・ラマの写真を欲しがる。ダライ・ラマとは「大海の上人」という意味の称号であり、輪廻転生の思想に基づき、その死後49日で受胎され、生まれ変わるとされる。ダライ・ラマは1578年にモンゴルのアルタイ汗がソナム・ギャムツォという人物に贈ったのが最初である。その後ソナム・ギャムツォ以前に2人のダライ・ラマがいたことが認定され、ソナム・ギャムツォはダライ・ラマ3世とされることとなった。1642年ダライ・ラマ5世は、9世紀中頃の吐蕃王国の崩壊以降続いた氏族割拠の状態を終わらせ、チベット全土を統一し、政教一致の政治を開始した(歴代ダライ・ラマの中でもダライ・ラマ5世は民族の英雄として強い信仰の対象となっているようである)。18世紀中頃(ダライ・ラマ7世の頃)にはチベットは政治的混乱から清朝の被保護国の地位に転落し、19世紀末から20世紀初頭にかけイギリスからの侵略を受ける。イギリス侵攻の際ダライ・ラマ13世はモンゴルに亡命し、その後一時ラサに戻るが、さらに清朝の反攻が行われた際、インドに亡命した。ダライ・ラマ13世は清朝崩壊とともにチベットに戻るが、ダライ・ラマ14世は中華人民共和国成立後1959年に生じた中国政府への大抵抗運動の際インドに亡命する。ダライ・ラマ14世は1989年にノーベル平和賞を受賞している。
沿海都市による経済援助
第3日目午後1時にチベット第二の都市であるシガツェに向け出発する。330kmの道のりだそうだ。ランドクルーザーで舗装道路をヤルチャンポ川(ガンジス川の支流)に沿って西進し5時間で到着した。シガツェはラサよりやや標高が高く3900m程とのことである。
到着後シガツェの町を歩いてみる。この町はラサより漢族の町の雰囲気がする。ラサの住居に見られたような窓枠の飾りも少なく、道を歩く人も漢族の方が多いようで、商店主はほとんどが漢族である。かなりの数の移民が入っていることが窺える。
町の中心に「上海広場」というショッピングセンターが建設されつつあるが、その敷地の壁には大きな字で「上海建工集団」と書いてある。現在中国では沿海部と内陸部の格差が大きな問題となりつつあるが、その対策のうちの一つとして、沿海部の都市と内陸部の都市をセットにして、前者に後者の発展を支援させるという政策が採られている。例えば上海市は雲南省及びシガツェ地域を担当している。チベットを支援している省市は14あるそうだ。シガツェは上海と山東が、ラサは北京と江蘇が担当している。具体的な支援の方法は、投資の他、各地からチベットへの幹部派遣、各地によるチベットの幹部の一定期間受け入れ等である。実は今回の旅行にはこの援助状況を見たいという要素もあった。建設現場の壁の他の部分には「上海広場の建設でチベット人を喜ばせ、上海人を安心させよう」と書いてある。やや高飛車な感じがするが、素直な感情を示した言葉かもしれない。私が高山病で担ぎ込まれた病院や道路、博物館、図書館など一定のインフラ整備がなされているが、そのほとんどは中央政府の援助に頼っている模様である。チベットには国有企業も少なく、主要産業である農業への課税も広く免除されていることなどから独自の財政収入は非常に少ない。中国政府はチベットに対しかなりの経済的援助を行っているのである。
山東省による建設現場もあった。シガツェには漢族が多いようだと述べたが、沿海部からこうした建設のためにかなりの人数が来ていることもあるのだろう。
シガツェ
その夜ひどい頭痛ではあったが、部屋でじっとしているのはよくないと思い、特に買いたいものがあるわけでもないがホテル内の土産物屋に行ってみた。土産物屋の親父は最初は「○○元」と「安い」の組み合わせのみの日本語でしつこく商品を売り込んできたが、しばらくすると、中国語のしゃべれる日本人が珍しかったようで、私は彼の 暇つぶしの雑談相手にされてしまった(ちなみに、この土産物屋の親父以外にも今回の旅では若干のチベット人と交流を持ったが、皆が例外なく日本人に対しかなり良い感情を持っているようだった。この辺りでは日本軍の侵攻がなかったためだろう)。20分も話をしたであろうか。親父は突然「○○元」、「安い」に次ぐ第3の日本語を口にした。
「要不要マッサージ?」
驚いた。宗教心の厚いチベットにもやはりあるのか。私は親父に聞いてみた。
「マッサージってどんなマッサージ?」
親父は、
「全部、全部。若い小姐だぞ。それもチベット族だ」
と言った後、再び彼の知る数少ない日本語で
「500元、 500元、安い、安い」
と言った。そんな会話が続き、しばらくして親父は言った。
「ほら、そこに来たぞ。後ろ、後ろ」
振り替えると、チベット族の美人の小姐が、なぜか魔法瓶を片手に立っていた。彼女は可愛い声で、
「要不要マッサージ」
と言った。私は心がぐらついたが、
「ごめんね。今とても頭がいたくて。また明日にでも(明日はチェックアウトでこの町にいる予定はなかったが)」
と、親父と話すときとは明らかに声のトーンを上げて言ったところ、小姐は、
「じゃあ、頭痛に効くマッサージをしてあげる」
と言った。実に商売熱心だ。しかし私は「ごめん、ごめん、不要、不要」といいつつその場を逃げ出した。それにしてもあの手に下げていた魔法瓶は何なんだろう。やはりここは秘境である。熱湯を使ったチベット式の秘伝サービスがあるのだろうか。
第4日目は午前中にパンチョン・ラマが歴代座主を務めるタルシンポ寺を参拝する。山の中腹に4つの建物が並んでおり、それぞれの建物の中に弥勒仏像、ツォンカパ像、歴代パンチョン・ラマの霊塔などが安置されている。その後シガツェ市内で昼食をし(私は高山病で食欲がなくほとんど食べなかったが)、12時過ぎに約100km東南のギャンツェへ向け出発。砂利道を走り、途中寺を一つ見て3時間程でギャンツェに着く。
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