午後は競馬を見に行く。当地の年1回の最大の祭りということで、中甸市内はもとより郊外からもトラックの荷台に乗って大勢がやってくる。競馬場の観客スタンドのみならず、周りの丘も人で溢れている。その人数はおそらく一万人を超えるであろう。ほとんどが弁当持参で、強い日差しを避けるためにテントを張っている人も多数いる。民族衣装を着た人々、僧侶、馬を引く人など人の流れを見ているだけでも飽きない。我々のガイドはチベット小姐なのだが、昼食の時に着替えに帰ると言ってしばらくいなくなり、戻ってくるとずいぶんときれいに着飾っていた。それもこの祭りのためのようである。それほど中甸市民にとっては重要な祭りなのだ。
この祭りの中で、一つ興味を引かれることがあった。日本の祭りの時と同様で、屋台の食べ物屋の他、輪投げなどのゲームの店も出ているのだが、ある店には他の店の数倍の人垣ができていた。人をかき分けて覗いてみると博打が行われていた。
横長の紙に左から蛙、蛇、鶏の絵が書かれている。プレーヤーはそのいずれかに賭けるのだが、ディーラーが合計4面、うち2面に蛙、1面に蛇、1面に鶏が書かれているコマをまわし、蛙の面が出れば蛙に賭けたプレーヤーは1倍の配当を受け(例えば10元賭けていれば20元になって戻ってくる)、他に賭けたプレーヤーは賭け金を没収される。蛇の面が出れば蛇に賭けたプレーヤーは2倍の配当を受け(例えば10元賭けていれば30元になって戻ってくる)、他に賭けたプレーヤーは賭け金を没収される。鶏については蛇と同様である。
中国で賭け事が「堂々と」?行われていることにも驚いたのだが、このゲームの不思議さのためにしばらくの間その場に立ちすくんでしまった。「不思議さ」とはつまり次のとおりである(筆者の趣味でクダクダと書いてしまった。興味のない方は読み飛ばしていただいて構わない)。
このゲームのオッズ。一見問題がないように見える。「蛇や鶏の出る確立は蛙の2分の1であるが配当は2倍なのでチャラ」と考えるのである。
しかし実際はそんなに単純ではない。1元を賭ける時の期待値を計算すると、
蛙に賭ける場合は、 | 1/2 × 2元 + 1/2 × 0元 = 1元 |
蛇または鶏に賭ける場合は | 1/4 × 3元 + 3/4 × 0元 = 3/4元 |
よって期待値からは蛙に賭ける方が絶対に有利であり、蛇や鶏に賭けるプレーヤーはいるはずがないということとなる。そして蛙に賭ける場合の期待配当率は100%となるが(1元賭けると1元の配当が期待される)それでは賭場を提供している者の利益の生まれる余地がない。手間賃のみならず、違法行為により逮捕されるリスクをも考えれば利益の生まれない堵場を提供することは合理的な行動ではない。
しかし実際には蛇や鶏に賭けるプレーヤーがおり、よってディーラーに利益が生じている。これはいったいどういうことか?「無知な人が賭けているだけ」と言えるのだろうか?
ここで「不確実性」の理論で考えてみる。人々の行動にはリスクを嫌う「リスク・アバーション」とリスクを好む「リスク・ラビング」がある。リスク・アバーションにおいては、例えばもらえるお金が2倍になっても効用は2倍にならず、もらえるお金が半分になると効用は半分以下にまで減る。つまり安定志向だ。普通はこのリスク・アバーションであり、だからこそ保険会社が存在している。他方リスク・ラバーは、もらえるお金が2倍になると効用は2倍以上になり、もらえるお金が半分になっても効用は半分にならない。競馬や競輪で期待配当率が75%でも賭けを行う心理はリスク・ラビングである。そしてプレーヤーが強烈なリスク・ラバーである場合上記の賭けも成立しうるのだ。
蛇や鶏に賭ける心理状態を数式で示せば次のとおりである
( u(x元) は、x元から得られる効用を示す)
1/4×u(3元)+3/4×u(0元) > u(3/4元) = u(1/4×3元+3/4×0元)
1/4×u(3元)+3/4×u(0元) > 1/2×u(2元)+1/2×u(0元)
プレーヤーが、配当が増えれば増えるほどどんどん大きい効用を得るようになるのであればこれらの式が成り立ちうる。つまり蛇や鶏に賭けることが合理的な行動となる。
と、ここまで考えて満足し、この「インスタント」堵場を離れた。そして50メートル程歩いたところで公安とすれ違った。しばらくしてインスタント堵場が開かれていた所に戻ってみたが、逃げたのか、それとも逮捕されたのか、跡形もなくいなくなっていた。
本来旅行社に対しては翌日の昆明行の便をとるようオファーしていたのだが、祭り期間中のため席がないということで、麗江を22:50に発つ便を利用して昆明に戻ることとなった。中甸を夕方5時半に出発し、車で麗江まで約3時間30分である。
しかしこの旅程変更が結果的には大正解であった。中甸―麗江間は車窓に飽きることのない大変すばらしい行程なのだ。ただこの時思ったのは、中甸から麗江へ下るより麗江から中甸へ上った方が「シャングリ・ラへはるばる行くゾ」という雰囲気が徐々に盛り上がっていくので、一層いいだろうということである。そこでこの行程については、実際とは逆となるが、「麗江から上ればこうなるだろう」と想定してご紹介したい。
古い街並みの続く麗江の町を出て、右手に万年雪を頂く玉龍雪山を見ながら走る。金沙江沿いをしばらく走り、道が金沙江の支流である小中甸河沿いになると川幅は徐々に細くなっていく。
最初は小中甸河を右手に見て進むが、橋を超え川が左手に移るころから渓流に姿を変える。ここから先の景色がすばらしい。一気に1000メートル程を上っていくのだが、道路が斜めに継続して上っていくのに対し川の方は段階的に上っていくので、ところどころが滝になっており、時にはかなり落差のある滝が形成されている。平坦な部分についても川幅が狭いのでかなりの急流である。さらにすすめば小中甸河が深い谷を刻むようになり、道路のはるか下の方を川が流れるようになる。道路は壁の側面に作られたようなようなものであり、「万が一にでも落ちたらば・・・」とスリル満点だ。植生は針葉樹林帯に変化し、壁にへばりつくようにアゼリアの花が咲いている。この谷は「虎跳峡」と呼ばれる。虎が飛び越えてしまうほど細いということだろうか。それとも虎も誤って落ちてしまうほど急だという意味だろうか。
道路はそれまでずっと一緒であった小中甸河と離れ、さらに急な勾配に入る。蛇行に蛇行を重ねこの坂を上りきると辺りが突然に開ける。シャングリ・ラの一角に到着したのだ。植生は高山特有の潅木中心となり、チベットの民族衣装で農作業をする人やカラフルな窓枠の家が、今までの場所とは別世界に入ったことを教えてくれる。麗江からここまでずっと急な勾配を上ってきが、この地点ですでに標高は3200mを超えており、ここからは平坦となる。今までは螺旋階段で、広々とした屋上にたどり着いたようなイメージである。
さらに進むこと数十分で中甸に到着する。
…と以上のようになるはずだが、実際には後ろ髪を引かれる思いでシャングリ・ラを離れ、まるで落下するように勾配を下り麗江へ着いた。
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