川の合流地点がある。二つの川がここからゲズ川と名前を変える。この地点で川の傾斜が変わり流れが遅くなるため土砂が堆積
し川の面積が大きく広がり湖のようになっている。遠くには相変わらず白い山が望まれる。ピクチャレスクとは正にこのような景
色をいうのだ。
カラクリ湖への道程、何度も(おそらく20回くらいだろうか)、羊の群れに道を阻まれた。羊の群れの最後には牧羊犬がつい
てくる。ニュージーランド南島あたりの光景そっくりである。ウイグル族は夏の間はカラクリ湖周辺のパミール高原で放牧をし、
秋になるとウパールの村近辺に戻ってくるのだそうだ。通常の放牧期間は6~10月だが、一部が9月に切り上げて帰ってくる。どん
な悪路でも跳ねながら80キロで飛ばすランドクルーザーも羊の群れとすれ違う時ばかりは別である。ゆっくりと歩くようなスピー
ドで進む。羊の群れというのは実に平和な感じである。真っ白で愛らしい羊達が何も考えず悩みも苦しみもないという風情でゆっ
くりとすすむ。時に勝手に道端の草を食べているようなやつもおり、実に自由気ままという感じだ。この時ふと思った。確かにこ
んなやつらの数を数えていたら眠くなる。
羊以外によく見かける動物といえば、ふたこぶラクダ。川に沿って緑の土地が細く続いているが、ここで親子でのんびり草を食
んでいる。なお、我々のイメージするラクダといえばこのふたこぶラクダだが(少なくとも私が子供のころに見た絵はすべてふた
こぶラクダだったと思う)、パミール高原を一つ越えるとひとこぶラクダの生息する地域に変わるそうだ。
さらに進むと左手に7000メートル級の山々が見えるようになる。もちろん頂上は万年雪に覆われている。まったく現実離れした
景色であり、いくら見ても見飽きることがない。このころになると道路も標高が3000メートルを超えている。ヤバイ頭痛がしてき
た。
そして、カシュガルより4時間40分。ついにカラクリ湖につく。湖面は昨日の天地とは異なりエメラルドグリーンだ。湖の対岸に
は、真っ白な山々が広がっている。周りには団体旅行客もいない。水だけでなく空気も透明だ。耳に入るのは自分の足音のみ。絵
の具で一色に塗りつぶしたような青色である。気温は22度ほどで、日陰に入れば風がここちよく、他方で太陽の下ではすぐに服が
焼けるように熱くなる。このここちよさを表現することは私の文章力を超えている。ここまでの行程の疲労など一瞬のうちに忘れ
てしまった。こんなところなら2日でも3日でも滞在したい(ただし高山病がなかったらの話だ。このころすでに頭痛がひどくなっ
てきている)。
湖畔に一軒だけレストランがあり昼食をとる。出された食事は何だか異常に辛くて、あまり食べれなかったのだが、ここでウ
パールの村で買ったハミグアを切ってもらう。食べてみて驚いた。甘い。上海で食べるものとは比較にならない。これはまさしく
日本で食べるメロンと同じ味である。このハミグアを一度食べたら上海のハミグアなどはメロンの形をしたキュウリと呼びたくな
る。ハミグアの最もおいしい季節は10月だそうで、その頃には今よりいっそう甘くなるそうだ。是非一度食べてみたい。
どこから来たのか、食事を終わってレストランから出ると、露店が並んでいた。外国人が来たという情報を得て飛んできたのだ
ろう。露天商より同行のG氏(今回の旅行はG氏、H氏、私の3名である)がウイグルの民族帽子を買ったのだが、彼が出した1元
硬貨を露店商は受け取ろうとしない。以前より、上海では硬貨が溢れているが中西部ではめったにお目にかかれないと思っていた
が、西のはずれまでくると受け取りを拒否されてしまうのである。通貨の流通までも地域性があるとは。さすがに中国は広い。
景色はすばらしく、食べものもおいしいということでとても離れがたかったがやむ終えない。我々は帰路についた。
途中で、オランダの女性二人のヒッチハイカーを車に乗せた。カラクリ湖で3日滞在した後の帰路らしい。中国に入り既に1ヶ月が経過し、さらに2ヶ月旅行するらしい。彼女達は、途中の人が住んでいるかどうかも定かではないような小さな村でおりた。今夜はそこに泊まるそうだ。このような何とも元気な若者にはこの他にも旅行中何度も出会った。若者のみならず、日本人の年配者10人くらいでパキスタンのイスラマバードを2週間かけて目指すという人々とも知り合った。パミール高原の高山病で倒れないかと心配である。また、あるツアーに添乗するためこれから北京に行くという中国人ガイドに会ったのだが、そのツアーというの聞いて驚いた。北京からイスタンブールまでバスで55日間をかけて行くのだそうだ。さらには、聞いた話だが、10日前にカシュガルの町をロバに荷車を引かせて国境越えに旅立ったという日本人の25歳の青年である。昨日カラクリ湖に無事についたとのことだ。我々は「暇な人もいるもんだね」などと言いつつも、飛行機を駆使して10日間で新彊全体を駆け巡る自分達には見つからない多くのものを発見するであろう彼らをうらやましくも思えるのであった。
夜9時。カシュガル着。疲れた。振動のために「尻の皮がむけたのでは」と思うほど尻が痛む。とはいっても本日の行程は尻の皮の一枚や二枚には十分値するすばらしいものであった。
食事の後、屋台にビールをのみに行く。つまみはシシカバブーだ。ここでガイドの趙さんと初めてゆっくり話をできた。当地での日本人感情を聞いてみたところ、日本人は欧米人等に比べ好かれているという。ドラマなどの文化が入っているし、電化製品や車の力も大きいそうだ。それにこの地では日本軍の進軍がなかったということも大きいのであろう。会話をしていて一つ興味深かったのは、趙さんは大変流暢に日本語を話すにもかかわらず(今回各地で同行してくれたガイドは全部で4人だが、4人中で最もうまい)、「オッパイ」という言葉を知らなかったことだ(どういう会話の中でこの言葉が出たかは詮索しないで下さい)。「オッパイ」という言葉は、「ママ」、「パパ」に並んで日本人が生まれてから3番目以内に使う言葉であろう。トルファンでのガイドは女性なので聞きそびれたのだが、興味を持った私は、敦煌でもガイドに「オッパイ」という言葉を知っているか尋ねたところやはり聞いたことがないという。「こんな重要な言葉を教えないとは中国の大学における日本語教育は間違っている」と問題提議をせにゃならんという気にもなったが、まあ考えてみれば、女性なので聞かないという私の姿勢もこの言葉を教えない大学の方針もあまり変わるところはない。
部屋に帰ってからはまったく記憶がない。疲労のあまりシャワーも浴びずに眠ってしまった。
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