四日目はカシュガル市内観光。ホージャ墳とエイティガール寺院を見てまわる。ホージャ墳は17世紀にカシュガル地域において政治・宗教にわたる全権を掌握していたアッパクホージャが父のために建てたもの。彼の父はイスラム布教のために西方より新彊にやってきた。大きなドームの中にホージャ一族の墓が並べられている。ウイグル族は土葬とのことで、自分の立っている足元に72の死体が安置されていると思うとやや恐い。 エイティガール寺院は新彊で最大のイスラム寺院。
その後エイティガール寺院脇の職人街やホーテン玉工場などを散策してホテルへもどる。職人街では楽器、装飾品、木工製品等手あらゆる物が売られている。これらの物は店の中や前で手作りされている。一軒一軒見ても飽きることはない。
帰り際にまたハミグアを買ってしまった。もうやみつきである。夜ウルムチヘ。
五日目。ウルムチからトルファンへ。トルファンまでは8月20日に高速道路が開通しており(ほんの2週間前のことである)、以前4時間であった道程が2時間で行けるようになっている。天山山脈の低くなっているところを越えていくのだが、通常は強い風が吹く土地らしく風力発電の風車が並んでいる。ただし我々が通った時はまったくの無風で風車も停止していた。
その後交河故城等を観光。交河故城は漢の頃の城の遺跡である。泥で作られた街が風化しており、司馬遼太郎氏はここを始めて訪れた時「非常に原始的な、一種異様な、こわさ」を感じたという。その感覚を感じることができると思ってやってきたのだが、暑さでふらふらでそんな感受性はどこかへ消えてしまっていた。なお翌日に見に行った高昌故城も同様な遺跡なのだが、城の最深部までを往復するロバの馬車に乗ったところ、その運転手が妙に陽気なやつで、へたな日本語で(といってもこの仕事をしながらよくもまあここまでしゃべれるようになったものだと感心したのだが)次から次へと話しかけてくるためこわいという感覚は残念ながらよくわからなかった。
ともかく暑い。気温は日陰で41度、太陽の下で49度だ。汗ですぐTシャツがビショビショになる。身体にあたる風も熱い。同行のHさんの腕時計は電池切れで、カシュガルでは1日に1時間程遅れていた。しかしトルファンでは、暑さのため電池の機能があがり最後の力を振り絞っているのだろう、正確に動き出した。これほど暑いともうサウナのようなもので、むしろ心地よさを感じてしまう。トルファン観光には帽子、日焼け止めが欠かせないが、温度計もおすすめだ。これだけ熱いと思わずその時の温度を知りたくなる。そして「アー、温度もこんなに高い。厚いはずだ」と自分の経験している状況を知り、自己満足に浸れるのだ。旅行から帰ったあと、旅行の感想を聞かれる度に「いや~最高で49度ですよ」と自慢することもできる。そういえば「東北でスキー」の回に書いたとおり、半年前はマイナス25度を経験した。半年で温度差約75度である。やはり中国は広い。
トルファンで興味深かったのは、いくつもの遺跡はもちろんだが、カレーズと呼ばれる地下水道である。カシュガルからカラクリ湖にいく道沿いにあるオアシスについて、我々の一般的にイメージする湧き水の周囲に発達したものではなく、川の水を引き潅漑したものだと述べたが、トルファンはそのいずれとも異なる。天山山脈の雪解け水をはるばる引っ張ってきたものなのだ。天山山脈の麓からトルファン盆地にかけ竪穴をいくつも掘り、その竪穴の底を横につないでゆく。天山山脈からトルファンにかけてはゆるやかに高度が下がっていくので水が流れる仕組みである。もともとは中近東で使われ始めたもののようでシルクロードを伝わってやってきた技術であろう。
夜はまた、表演評論家の私は民族舞踏を見に行った。宿泊している緑州賓館のショーだが、カシュガルの其尼瓦克賓館で見たものより踊りも音楽も質が高いように思った。
六日目。高昌故城、アスターナ古墳、ベセクリク千仏洞を観光。高昌故城は5世紀から1000年近くの間この地の中心として栄えた都市跡。アスターナ古墳は高昌国の貴族の墓地で2体のミイラが安置されている。乾燥が激しいためにミイラの保存状態がよいとのことだ。ベセクリク千仏洞は6~14世紀頃の石窟寺院。破損が激しく大変残念である。トルファンは漢による統治が行われて以来、漢族による統治がしばらくつづき、9世紀頃にウイグル族による統治に移る。ウイグル族は当初仏教を信教するが、後にイスラム教に改宗していく。イスラム教は偶像崇拝を禁じるため、ベセクリク千仏洞の壁画は破壊された。このような破壊はまあやむを得ないが、どうにも納得がいかないのは今世紀に入ってからの破壊である。多くの探検隊によって壁画は剥がされ国外に持ち出された。
ところで、このベセクリク千仏洞は西遊記にでてくる有名な火焔山の麓に位置する。火焔山は赤茶けた土のみの、草もまったく生えない不毛の山だ。西遊記の中で三蔵法師は燃えさかるこの山を通れず苦労するのだ。西遊記は三蔵のインドへの道程を記した「大唐西域記」がフィクション化されたものだが、この辺りの気候・地勢があまりに厳しいために妖怪の住む地とされたのであろう。しかし火焔山はひどすぎる。暑いし木も生えないし。こんなところには妖怪だって住みたがらない。妖怪が住んでいたにしても他の地域での権力闘争に敗れたか、世捨て人ならぬ世捨て妖怪ぐらいのものであり、いかにも弱そうだ。孫悟空にとっては相手として不足だったに違いない。
その後葡萄溝(葡萄畑で、葡萄棚の下で葡萄を食べることができる)、博物館を見てホテルへ戻り、夕食の後鉄道駅へ。この鉄道駅への道程がとんでもない。洪水でもあったのだろう。途中道がないのである。幸い満月なのでまわりがぼんやり見えるが、真夜中の砂漠の中を走っている状態だ。こんなところで夜明かしは御免である。運転手も正しいルートであるか不安になっているようだが、5分に一度くらい対向車がやってくるので間違ってはいないらしい。30分程度でこの状況を抜け、なんとか駅にたどり着いた。ここより敦煌行きの夜行列車に乗る。
(参考文献は本シリーズ終了時にまとめて掲載)
|